東日本大震災を機に、冷蔵庫を捨てて節電生活に入った稲垣えみ子さん。そこから失うことの恐怖がなくなり、「むしろないことは面白い!」と、50歳にして会社まで辞めてしまった。その稲垣さんは現在、古いワンルームマンションで最小限のモノと食で暮らしているが、ハッキリと「お金がたくさんあった会社員時代より幸せ」と言う。果たして稲垣さんの言う“幸せ”とは? それは周囲をも巻き込む好循環を伴っていた!

稲垣えみ子 1965年生まれ。愛知県出身。一橋大学卒業後、朝日新聞社に入社。大阪本社社会部、週刊朝日編集部などを経て、論説委員、編集委員を務めるも、2016年1月に退職。夫なし、子なし、冷蔵庫なし、仕事もしたりしなかったりのフリーランスな日々を送っている。著書に『魂の退社 会社を辞めるということ。』、『寂しい生活』(ともに東洋経済新報者)、『もうレシピ本はいらない 人生を救う最強の食卓』(マガジンハウス)などがある。
 


美味しい“地味メシ”が教えてくれたこと

 取材をさせてもらった日は天気が良かったため、撮影は外でもおこなわせてもらった。明るい日差しに照らし出される稲垣さんの顔は、すっぴん。しかし、不躾なまでにじぃーっと見てしまうほどツヤツヤ、スベスベ。まるでむき卵のよう! これはきっと、冷蔵庫を捨てたゆえの食生活に秘訣があるに違いない……。
 そんな私たちの疑問に答えるように、現在の稲垣さんの食生活を綴ったエッセイ『もうレシピ本はいらない 人生を救う最強の食卓』(マガジンハウス)が、9月に発売された。しかし読んでみると、その食卓は驚くほど質素。ほぼ毎食同じというメニューは、一例を挙げると以下のようなものだ。

・ 玄米ご飯
・ 梅干し
・ 大根おろし
・ 人参のぬか漬け(自分で漬けたもの)
・ サツマイモとネギと油揚げの味噌汁(野菜は自分で干したもの)

「え、こんな地味な食事!? と驚かれるかもしれませんが、これが驚くほど美味しいんです。早く食べたくて、毎日走って家に帰る。まああくまで自己満足ですが(笑)。でも自分が心から美味しいと思えるんだからそれでいいじゃないかと。おかげで冷蔵庫を捨ててからの私は、お腹がパンパンになるまで食べなくても、腹八分で満たされるようになりましたし、『甘いものが食べたい』という欲求もなくなった。それは心が満たされているからなんですよ、多分! 冷蔵庫を捨てたらダイエットも簡単にできてしまったというわけです」

 そして、この地味〜な食事こそが、会社を辞めるという思い切った行動を大いに後押してくれた、とも言うのだ!

「考えてみれば私はずっと、“豊かに生きる”ために受験も仕事も頑張ってきたわけです。でも、地味でもお金も労力もかけずに最高に美味しいご飯が食べられるなら、それで十分に豊かじゃないですか。じゃあ何のためにたくさんのお金を稼がなきゃいけないのか。私は何のために苦労や我慢をしてきたのか。たくさんのモノに囲まれていると、『これだけあれば幸せ』というものが見えなくなります。そうして自分が何をしたいか、何を好きかも分からないまま、ただ不安で、だからもっと稼がなきゃと……。でも私は冷蔵庫を捨てて、食生活も変わり、『自分はもう充分持っていたんだ』と気づけた。こうして50歳にして、『稼がねば』という無限地獄から抜け出せたんです。」


家を小さくすればするほど広がったものとは……?

稲垣さんの行きつけのブックカフェにて。

 そんな稲垣さんの今の生活とは……? 会社を辞め、現在の小さな部屋に引っ越してからは、冷蔵庫を置いていないのはもちろん、ガスも引かず銭湯通い。エアコンもないので昼は毎日のようにカフェへ行き、仕事をしたり顔なじみになったお客さんとお喋りしたり。読み終わった本はブックカフェに置かせてもらう。まさに、街全体が我が家状態。そんな今の生活を稲垣さんは、「最近、これって『方丈記』じゃないかと思うようになった」という。それは一体……!?

「『方丈記』は、鴨長明が何もない小さな庵に暮らしながら世を綴った有名な随筆です。学校で習うので、名前くらいは聞いたことがある人が多いんじゃないでしょうか。私もその程度の認識しかありませんでした。風流を気取ったおじさんの貧乏自慢、みたいな。でも今の暮らしを始めてみてふと、『あ、長明さんは全然貧乏なんかじゃなかったんだ』と思ったんです。私は今、ガスやエアコンがないから銭湯やカフェに通うようになったら、そこで友達ができて、忘年会や旅行に誘われたり、おかずの残りをもらったり。住まいや暮らしを小さくしたからこそ、広い世の中と繋がっていける。つまり自分のサイズが小さければ小さいほど、より多くのものと繋がることができる。そこには、家の中に便利なものを溜め込むなんていうレベルをはるかに超えた、爆発的な豊かさがあるんですよね。長明さんもきっと、そのことを知っていたんじゃないかと」

 たとえば最近、こんなことがあったという。稲垣さんは、会社を辞めたらピアノを習いたいと思っていた。でもそうすると、ピアノを買わなくてはいけない。となると、今の小さな部屋には入らないから引っ越さなくてはいけない。もはや大プロジェクトだ……。

「でもたまたま、行きつけのカフェにピアノがあったんです。それでお願いしてみたら、お客さんがいないときに練習してもいいよと。でも先生がいないなあと思っていたら、同じお店の常連客に音楽雑誌を作っている方がいて、私の本を読んで、『うちの雑誌で連載をしませんか?』と。そこで私の中にムクムクと悪巧みが……(笑)。音楽雑誌の方ならピアノの先生のツテを持っているんじゃないかと思ったんですね。それで『先生を紹介していただいて、私が40年ぶりにピアノを習う様子を連載するっていうのはどうでしょう。原稿料は先生への謝礼に当てるということで……』と持ちかけてみたら、『それは面白い』ってことになって、何と紹介してくれた先生が現役のピアニスト! しかも若くてカッコいい(笑)。これは、お金では絶対つながらなかったご縁です。助けてくれる人はまわりにいっぱいいるのに、今まではすぐ『お金で』となっていたから見えてなかったんだなーと痛感しました。お金はもちろん大切だけど、ないとどうにもならない、ということはないんですよね」


自力で何とかするほうが面白い!

 稲垣さんの“ない暮らし”が生んだつながりは、お金ではもちろん、SNSでも絶対生まれないもののような気がする。華やかな人のSNSを見て「自分も同じような生活をしないと」と焦り、どんどんお金を投資する。そんな幸せの追いかけ方をしている人も多いようだ、と伝えると……。

「みんな、素朴に幸せになりたいんだと思うんですよ。でもどうしたらいいか分からないうちに、どんどん情報が入ってきて、『こうしなきゃいけないんだ!』となる。それで一生懸命買ったり食べたり……。でも本当にそれが欲しいのか、食べたいのかと言ったら、分からないと思うんですよね。でも今の私は、様々な荒療治のおかげで自分が欲しいものや幸せになれるものの分量がやっと分かった。そうなると、誰かのSNSを見ても『ふむ』です。批判も羨望もない」

 それどころか稲垣さんは、「むしろお金やモノで解決することはつまらない」と思うようになったという。クリーニングに出していた服も、「何とか自分で洗えないか?」とやってみるし、調理道具も鍋と包丁、まな板、ボウルとざるだけでやり繰りしている。そうして上手くいくったときの「できた!」という充実感たるや……。

「“めんどくさい”は人生を劣化させる魔法のキーワードなんじゃないかと。みんな、めんどくさいからと家から出ずネットショップで買い物を済ませ、それで運動不足だからとお金を払ってジムに行く。よくよく考えると、一体どうしたいんだっていうことが案外多いんじゃないでしょうか。便利を得れば得るほど心も頭も使わなくなる。それでもお金が回っていればOK、みたいなことに今の世の中はなっていますけど、そこに巻き込まれると、際限なく欲しいものを追い求めて、一方で自分自身はどんどん退化して、お金なくしては生きられない人間になってしまう。でも幸せって、本当はお金でもモノでもない。親しい友人がいて、美味しいものを食べられて、豊かな自然を感じながら暮らすことができれば最高じゃないですか。それは案外、身近なところに既にあったりするわけです。私は冷蔵庫や会社というチューブ(編集部注:前編参照)を外すことでそのことに気づいたわけですが、皆さんも『本当に必要!?』と思うチューブを1本抜いてみれば、何かに追い立てられることなく、ラクに生きられるようになるんじゃないでしょうか」

このカフェには、自分が読み終わった本を寄贈している。「まさに書斎代わり。読みたくなったらいつでも読めるし、売れたら売れたで嬉しいし」と言う。


今一番やりたいことは貧乏旅行


 “ない生活”によって「自分にとっての幸せ」を得、現在はその「幸せ」を実践する日々を送っている稲垣さん。「自分はもう足りている」とおっしゃっていたが、あえて新たにやってみたいことがあるとしたら、それは何だろう?

「新たにというか、前から旅行をしたいと思っているんですよね。私、バックパックの旅とか、いわゆる貧乏旅行をしたことがなくて。そういう旅をした人の思い出話を聞くと羨ましくて悔しくて仕方がない(笑)。有り余る時間をたっぷり使って旅行がしたかったというのも会社を辞めた理由の一つだったのに、本を出したらいろんなお仕事をいただくようになって、ありがたいんですが忙しくて身動きが取れないというわけのからないことに……。いやー、人生は難しいです。なかなか思ったようにはなりません。でもそれを“幸せ”というのかもしれないと、今日も自分に言い聞かせながらなんとか生きています(笑)」

前編はこちら>>
中編はこちら>>

今回のインタビューの完全版がこちらの三部作!

 

退社を決意するまでの経緯を綴った
『魂の退社 会社を辞めるということ』

稲垣 えみ子 著 ¥1400(税別)東洋経済新報社

朝日新聞社という誰もがうらやむ会社に勤めながら、退社を決意したその理由とは? 稲垣さんが「お金=幸せ」という考え方を変えていく詳細な心理過程が描かれていて、40代以降の人生について考えさせられる1冊だ。
 

 

冷蔵庫を捨ててみて見えたものとは!?
『寂しい生活』

稲垣 えみ子 著 ¥1400(税別)東洋経済新報社

節電生活の末、会社を辞めた稲垣さん。一つ一つ家電を捨てるまでの経緯と、その後の生活の詳細、そして冷蔵庫のない暮らしから得たものについて綴った1冊。便利の象徴である電化製品は、実は私たちから多くのものを奪っていた、と気づかされる。
 

 

読めば絶対に実践したくなる!
『もうレシピ本はいらない 人生を救う最強の食卓』

稲垣 えみ子 著 ¥1400(税別)マガジンハウス

冷蔵庫を捨てたことで、食品の保存ができなくなった稲垣さん。そんな生活から編み出された「旨すぎる」食卓とは? 1食平均200円。準備時間は10分。お金も労力もかからなくて大満足できる究極のメニューをたっぷり紹介!
 

撮影/横山翔平(t.cube)  取材・文/山本奈緒子 構成/大森葉子(編集部)