恋愛小説の名手として数々の作品を描いてきた谷村志穂さん。最新作『移植医たち』(新潮社)は、臓器移植をめぐる医師たちの物語。なぜ、医療をテーマに選んだのか? 執筆を通して感じたことなど、小説に込めた思いをお聞きしました。
 

臓器移植法施行から20年
「なぜこんなに知らずにいたのだろう」

 

脳死での臓器提供に扉を開いた「臓器移植法」が施行されたのは1997年のこと。今年で20年となる節目の年に、谷村志穂さんの新作『移植医たち』が刊行されました。1980年代半ば、世界の移植医療を牽引していたアメリカ・ピッツバーグ大学のドクター・セイゲルに師事するため、3人の日本人医師が渡米するところから物語は始まります。最先端の移植医療を目の当たりにし、葛藤を覚えながらも技術を研鑽したり、動物の命を犠牲にした実験を積み重ねたりして、ドクター・セイゲルを支える存在にまでなった3人。ところが、アメリカで築いた地位や名誉を捨て、日本に移植医療を広めるために帰国を決意します。しかし、そこにはさらなる困難が待ち受けていて――。

谷村さんが臓器移植に関心を持ったのは、地元・北海道のテレビ番組で移植経験者の家族や医師と共演したのがきっかけでした。

「脳死による臓器移植も、生体肝移植もこの時始めて知って、日本にそんな移植ができる医師がたくさんいることも知らなかったんです。この時、『なぜこんなに知らずにいたんだろう』と違和感を持ちました」

 

谷村さんが生まれ育った北海道と移植医療には、さまざまなつながりがありました。一つは1968年に和田寿郎医師率いる札幌医科大学胸部外科チームが18歳の少年に対して行った、日本初の心臓移植手術。直後は「快挙」として注目を集めたものの、術後83日目で少年が死亡してからは一転、さまざまな問題が指摘され、和田医師が殺人罪で刑事告発されるまでに至りました。この「和田心臓移植事件」により、その後の日本の移植医療に暗い影を落とすことになりました。もう一つは、臓器移植の最先端であるアメリカ・ピッツバーグ大学で実績を積んだ医師たちが北海道大学で臓器移植の専門外科を立ち上げ、日本での移植医療の歴史を大きく前進させました。

「和田心臓移植事件というセンセーショナルな出来事が北海道で起き、アメリカで研鑽を積んだ医師たちがあえて北海道を選んだ。そんなフロンティアスピリットに縁を感じたんです。北海道大学は私の母校ですが、そのような先端医療が行われていることを知らなかったですし、書くのは私なのかなと思ったんです」


医療小説ではなく、
“扉”を開けていく人たちの物語


モデルとなった医師たちを何度も取材。臓器移植の12時間に及ぶ手術にも立ち会い、アメリカ・ピッツバーグ大学や研究所にも足を運んだ谷村さん。数年かけて綿密な取材を重ね、移植医療の分野を切り開いていった登場人物の医師たちに命を吹き込み、彼らの足跡をリアルに描き出していきました。

「私はこれを医療小説ではなく、“扉”を開けていく人たちの物語と思っています。移植医療に限らず、何をするにしても扉を開ける人というのは大変なもの。移植手術が成功しても、術後管理という次の扉があり、日本社会からの反発という逆風もあります。移植医療は、自分の体だけで完結しない。医者も患者も臓器提供に関わる人たちも、心の扉を開けていく必要があります。出会う人や出来事との向き合い方には、不安、戸惑い、怯え、挑戦、他者を愛する気持ち、情熱、様々な要素が含まれていて、私が今まで小説で描いてきたことの延長にあるのを幾度も実感しながらこの小説を書いていたんです」

「この小説は女性にこそ読んでほしい」という谷村さん。移植医療という専門的な分野が舞台ではあるものの、多くの人たちが、それでしか助からないたった一つの命をつないでいくために力を合わせていく過程は、女性にこそ深く共感してもらえるのではないかと感じているからです。
「死の淵にいる患者がいて、臓器移植しか助かる方法がない。そんな状況に向かって、医師も挑戦します。どれだけやっても助けられなかったことを深く胸に刻む医師もいれば、過酷な動物実験の基礎研究を担う医師もいます。それでも、続けるからには仲間を信頼して力を合わせて立ち向かないと救えない。それは、自分の直感に忠実な女の人の方がより信じられる感覚なんじゃないかと思うんです」


ミラクルよりエンジョイ
人生の困難を乗り越えるために


なぜ、移植医療というテーマに惹かれたかを振り返った時に、自分が今まで描き続けてきたものとの共通点を見つけました。

「移植医療はこれだけ高度な技術と精神性を必要とされるのに、なかなか日の目を浴びない医療。そこには人間の悲しさや切なさがあり、また汗をかく、拭う、眠れずに夜を明かす、そうした当たり前の営みに色気が宿り、恋愛小説の書き手として、そういうところに惹かれたのかもしれません」

物語の中で、移植手術を目前にした患者が、タフな医療行為を続ける主人公の医師・佐竹山に対して、「なぜそんなにがんばれるのか?」と問う場面があります。佐竹山は少し考え、「ミラクルという言葉より、エンジョイに近いかもしれない」と答えます。固く閉ざされた扉が開くのは決して奇跡ではなく、開いた先の喜びを信じる気持ち。私たちが人生で直面する困難を乗り越えるヒントのような気がします。

「いまはすごく閉塞感のある時代。周囲の目を気にして、異論も言わず、自分の心身を蝕むような環境というか……。でも、一人ひとりが必死に扉を開け続けていこうとすれば、開けるべき扉は開くと思うんです」

谷村志穂 1962年、北海道生まれ。北海道大学農学部で動物生態学を専攻。90年にノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』で、女性たちの支持を集める。91年に『アクアリウムの鯨』で小説家デビュー。2003年に『海猫』で島清恋愛文学賞を受賞。代表作に『黒髪』『余命』『尋ね人』『大沼ワルツ』など。りんご好きでも知られ『ききりんご紀行』で17年青森りんご勲章受章。
 

『移植医たち』
谷村 志穂 著 ¥1900(税別)新潮社

1985年、最先端の臓器移植医療を学ぶために渡米した3人の日本人医師を待ち受けていたのは、努力も夢も報われないシビアな命の現場だった。苦難や葛藤を乗り越え、やがて日本初の移植専門外来を設立する彼らを支えた想いとは……。
 

撮影/今給黎香里 ヘア&メイク/森野友香子(ペール)
取材・文/吉川明子 構成/川端里恵(編集部)