自分自身の内面から、裏表なく清々しく!


「類は友を呼ぶ」というように、“自分のあり方”によって、出会う人や環境は、随分、変わってきます。
相性が合わなければ仲良くなることはないし、居心地が悪いと別の場所を探すようになるからです。
だから、光のほうに向かいたければ、まずは自分自身の内面から裏表なく清々しく、そして、愛情豊かでいたほうがいいのです。

冒頭で、「真面目な人が、ちょっと悪そうな人に惹かれることがある」ということに触れました。実は意外なことではなく、おそらくその真面目な人の内側にある“心の闇”が、ちょいワルの人と同調した結果でしょう。そうでなければ、お互いが惹かれ合うことは、まずありません。
人は、真面目だから“心の闇”がないわけではありません。一見、いい人に見えても、さまざまな感情を抱えていることは少なくないのです。

だから、もし光のほうに進みたければ、自分の内側にある“心の闇”を見て見ぬふりをしないほうがいい。自分の心にある“負の感情”を自覚し、消化していくという、地道な作業が大切なのです。
それができたとき、 “心の闇”をもっている人と出会っても、惹かれ合うことはなくなるでしょう。

“心の闇”は下り坂。そっちに向かうのは、簡単です。逆に、“心の光”は上り坂。そっちに行くには、ふんばりが必要となります。
人は知らぬ間に「楽なほう」に向かってしまうので、気をつけたほうがいいのです。

例えば、何も考えずに流されるように生きている人は、気づかないうちに闇のほうに進んでいます。「諦め」「怠惰」という闇側のほうを選んでいるからです。
逆に、積極性をもって能動的に生きている人は、「前向きさ」「向上」という光側のものを選んでいます。
どっちのほうが幸せになれるかは、一目瞭然でしょう。


正義感を抱いていても、闇に向かっていることも


「自分が正義の味方になって、悪をやっつけること」に快感を覚える人は意外といます。「正義感をもって悪と戦うのは、いいことに決まっている」と思いがちですが、それは、闇側に向かっているかもしれないのです。
この世界に「100%の正しさ」なんてものはありません。だから、正義をもっていたとしても、必ずしも光側に立っているとは限らないのです。

残念な人に出会ってしまったとき、「喧嘩をする」「争う」のか、「折り合いをつける」「離れる」のかによって、状況は変わってきます。
実際に争えば、自分も無傷でいられません。それでは、幸せ(光の世界)に向かっているとは言い難いでしょう。

理論上だけの話でいえば、闇をなくすためには、光を当てるしかありません。光を当てるというのは、「愛を注ぐ」ことでもあります。
例えば、「自分のことも、相手のことも大切にする」「相手の立場に立って物事を考える」ということが、結果的に光のほうに向かう言動につながります。

ただし、相手の闇が深ければ深いほど、相当、大きな愛が必要となるでしょう。また、反省していない人間を許すのが愛情ではないので、怒りや憎しみからではない“愛の制裁”(=愛と調和のほうに導くこと)が必要なこともあります。
一筋縄ではいかない世界だからこそ、「愛する形」は単純ではないのです。

人生はいつも選択の連続です。光側のほうに向かいたいけど、時に、どっちの道がいいのか分からなくなることもあるでしょう。
そんなときは、「愛をもって選ぶ」ようにするといいでしょう。それについては、次のページで紹介します。