2017.1.31

和籠を愛する

仕事の書類が多い日は、この大きい中川原信一さんのアケビ籠で。男性が持ってもいいようながっしりとした大きさが、持ち物すべてを受け止めてくれます。そして、仕事場へ行かないで、このまま森へキノコを採りに行ってもいいかな?と妄想するなど、気持ちを自由にしてくれることも籠が好きな理由。

50歳を過ぎて人生に新しく、和籠が加わりました。

幼いころから籠好きでしたが、和籠は渋すぎて、長い間どんなふうに持てばいいのかわからなかった。洋服とのコーディネイトがまったく思い浮かばなかったのです。

それが、友人がはじめた籠のギャラリーに通い、かつてないほどたくさんの作品や道具に触れ、作家さんや職人さんたちの編む姿を間近に見て、お話を聞いたりしているうちに、和籠がにわかに身近になってきました。

その魅力の一つは、質感です。

触れると指から自然の息吹のようなものが伝わってくるのです。

籠はワードローブにしまわずに、寝室に置いているのですが、しんと静まりかえった夜中に、籠たちは明らかに呼吸しているような気がします。それも、きれいな息を吐いている。

その端正な姿を眺めていると、自分まで清められるような気がます。

去年の暮れに、アケビ蔓の籠が届きました。秋田の作家、中川原信一さんが作られたものです。注文してから1年ほど待ちました。

中川原さんのことは、拙著「自由を着る」のなかで「籠を育てる」というエッセイに書きましたが、彼の手になる籠に直接触れたのは初めてでした。

持ち手を掴んだ瞬間、強いエネルギーが全身に流れ込みました。手で丹精込めて作られたものはすごい力を持っているのですね。

絶妙にアールを描く本体。縁や持ち手の巻き方の芸術的と言えるほどの仕上がりも、すべては使うひとのため、使われる籠のためなのです。

座って膝に抱えたときに掌や腕に触れる感触が優しく、けれどひ弱ではない。その確かな強靭さは、地球の核につながっているかのようです。
 

和籠の背景には切なさがある

これほどのものづくりをされるのに、中川原さんのお話にはいつも、ある切なさがあります。

いまは山が荒れていて、間伐しないことで木々が弱り、そうなると山全体が弱って、いいアケビ蔓がなかなか手に入らないこと。

若い頃、籠づくりの師匠であったお父さんから、晩酌の時いつも「おまえにはすまないことをした」と言われたこと。

その理由は、籠づくりだけで「食べていかれる」ことがごくまれだからです。中川原さんもお父さんも籠づくりで生計を立ててきたそのまれな方々なのですが、お父さんの息子を思う気持ちには胸を衝かれました。

北国の農閑期、家族総出で籠を編む。
子どもたちも教えてもらわず、見て覚える。その前にまず、蔓や竹を編むための籤(ひご)にする天日干しや水浸けなどの根気のいる長い作業があります。

籠をつくる人々の喜びもかなしみも、すべて編み込まれ、それでいて主張しない。潔く、美しい在り方…。

こんな見方は、若い頃にはできませんでした。物の背景の物語にまで、気持ちが及ばなかった。でも、背景を知ることで物との関わり方が深くなることを体験しました。

服とのコーディネイトがわからない、と思っていたのに、いまは毎日のコートにスニーカーで普通に持っています。

歳をとって重くなった分、和籠を受け止められるようになったのかな。

そして、そんなわたしの重さをナチュラルに放出し、身も心も軽やかにしてくれるのもまた、和籠なのです。

一昨年の11月28日に白山のgallery KEIANで行われた中川原信一さんのお話会と実演の様子。掛唄と呼ばれる、秋田県の伝統的な唄の名手でもある中川原さん。最後に素晴らしい声を聴かせていただき、ちょっと涙が。
持ち手と縁の巻き方の精妙さは、日本人の手仕事そのものの美しさ。