2017.8.22

黄昏は魔法の時刻

イギリスのウェールズからロンドンに向かう途中の小さな村。頭上の空はまだ明るいが、遠くの丘の教会はもうシルエットに

ふだんは午後3時から始まるヨガのレッスンが1時間遅れて、4時からになったときのことです。

セミのかまびすしい声を聴きながら、50分ほどアーサナをし、いつものように最後は横になって深い呼吸をしていました。

ふと、窓の外に目をやると、さっきまで灼熱の太陽が白く輝いていたのに、いつのまにか薄暮に変わっていました。

世界が濃い青の光に包まれる、薄暮。セミの声もぴたりと止み、しんと静まりかえっています。

最後の瞑想が終わると、部屋の中もうっすらと青く染まって、心なしかひんやりした空気が漂っていました。

時間にすれば5分ほどの間に、身体も気持ちも、心地よくストンと落ち着いて、エネルギーが戻ってきたのがわかりました。3時スタートのときには味わったことのない感覚です。

明らかに何かがデトックスされ、入れ替わったような清々しさ。夕暮れ時に静かな時間を持つことが、こんなに気持ちがいいなんて…。

この時間帯に何か秘密があるのでしょうか。

五島列島、上五島の夕日。どこか悲しげに感じたのは、隠れキリシタンの教会を巡ったからかも…。

夕暮れ時を指す「たそがれ」という言葉は、「誰そ彼」から来ています。

日が落ちる寸前のこの時刻は、人びとの姿がシルエットになって判別し難く、あれは誰だろう、あなたは誰ですか、と誰何する気配が漂ってきます。

この時刻を、万葉人は「魂降り」のひととき、と呼んでいたそうです。

「魂降り」とは、活力を失った魂を再生すること。たとえば神社で鈴を鳴らしたり、柏手を打ったりして、空気を振動させることもその方法と言われています。

ちなみに、ひとを見送るときに手を振ったり、万葉の歌人たちが恋の歌に詠み込んだ「袖を振る」と言う行為もそう。好きな相手に振られることを「袖にされる」と言いますが、これはその名残でしょう。

どちらにしても、黄昏時は、魂を再生しエネルギーを取り戻すとき、と古代の日本人は考えていたようです。

さて、作家の泉鏡花は、「たそがれの味」というエッセイに、こんな言葉を書き残しています。

ベトナム中部、ダナンの黄昏時。茜色に染まる空を映す川面。すべるように舟が行く。

――しかし、たそがれは夜の色ではない、暗(やみ)の色でもない。と云って、昼の光、光明の感じばかりでもない。昼から夜に入る刹那の世界、光から暗へ入る刹那の境、そこにたそがれの世界があるのではありますまいか。
(「たそがれの味」より抜粋)

夜でも朝でもない、昼とも違う、「一種特別な中間の世界」がある、と鏡花は言います。

そしてそれは、昼夜の関係のみならず、善と悪、快不快といった両極の間にも、微妙に存在する、いわば「あわいの世界」です。

あらゆる物事が移り変わる刹那の、その一瞬だけに立ち顕れる世界。それに触れたとき、ひとは真に安らぎ、バランスを取り戻すのかもしれません。

まだまだ残暑は厳しいですが、気がつくと立秋以降、日暮れはどんどん早くなっています。

慌ただしく過ぎる1日の中で、5分でも「あわいの時刻」である黄昏時に、手を休めて深呼吸してみませんか。

あとひと仕事、への活力がきっと戻ってくるはずです。

スエーデンのストックホルム。まだ光を湛える夏空に、一本引かれた飛行機雲。