光野桃「美の眼、日々の眼」

2017.9.26

憧れの「黒田辰秋」展、観てきました!

9月2日から始まった展覧会は、わかりやすい構成と、見やすい展示品の位置、照明など、とても工夫がされて、迫力ある作品と間近に邂逅する喜びを味わえます。わたしにとって、ここ数年の間に観た展覧会でベスト3に入ると言っても過言ではありません。美術館「えき」KYOTOで10月9日まで。

京都に生まれ、京都を拠点にして活躍した黒田辰秋の展覧会が京都で行われるのは、なんと初めてのことだそうです。

日本を代表する工芸家、黒田は、1970年に初めて木工芸の分野で人間国宝に認定されました。

わたしが初めて黒田辰秋のことを知ったのは、白洲正子の本からでした。

白洲は折に触れ、黒田辰秋のことを書き、「木」という本では「欅」の項に拭漆の欅の櫃を紹介し、正真正銘の芸術作品と絶賛しています。

白洲正子著 「木 なまえ かたち たくみ」平凡社ライブラリー 木工芸が好きだった白洲が、20種の木について語り、取材し、日本の文化と伝統の来歴を洞察する。読みやすく、奥深い一冊。

そして最近になって、志村ふくみさんの「母衣(ぼろ)」という大回顧展で、ふくみさんのお母さんで、哲学者だった小野豊さんのコーナーに、ごく小さな棗のようなものだったと思いますが、燦然と異彩を放つ黒田辰秋の作品が展示されていました。

小野豊さんは、京都で民芸運動を行っていた上賀茂民藝協団のメンバーであった黒田とも親交があったそう。

展示されていたその小さな作品は、まるでブンブンと音を立てて高速で回転しているように見えたのです。

ひゃー、すっごいなあ。これが黒田辰秋か。

展示コーナーのガラスに張り付いて、わたしはいつかこの作家の作品をもっと見たいと思っていました。

今回の展覧会では写真撮影は許可されていないため、図録から写真を掲載してみます。美しく、読みやすい貴重な図録です。

黒田辰秋は、1904年、辰年の秋に、京都祇園に生まれました。

生家は漆の塗りを担当する塗師屋(ぬしや)でしたが、分業制に納得がいかず、15歳の時に木漆一貫制作の道を独学で学ぶことを決意します。

20歳の時に出会った陶芸家、河井寛次郎との親交の中で民芸運動に出会いますが、河井寛次郎を師としながらも、いずれ独自の道を歩んでいきます。

展覧会で販売されているポストカード。

今回の展覧会では、民芸運動から離れた時期に、京都の注文主の依頼によって作成された作品群が見どころのひとつです。

白洲正子の本で知るずっと以前、学生だったわたしは友達と京都に旅し、黒田辰秋の作ったテーブルと椅子に座って珈琲とトーストを食べていたことを知りました。

京大北門前、百万遍にある「進々堂」のテーブルセットがそれでした。なんと贅沢な! 

母と旅行すると必ず訪ねて、くずきりをいただいた祇園の菓子舗「鍵善良房」さん。12代当主の今西善造が注文した飾り棚は、今も店内にあり、それと知らずに目にしていました。

鍵善良房のために作られた螺鈿(らでん)の作品の数々は、艶めき、そしてどこか生きものめいて、いまだ激しく疾走しているかのような生命力迸る美に、ただただ圧倒されるばかりです。

螺鈿卍文蓋物 1927年

棗や紙刀など、黒田特有の捻じりの入った造形は、太古の自然と確実につながり、共に響きあいながら、今も息づいているように感じられます。

赤漆捻八稜棗 1953-57年

展覧会会場の壁に、黒田の言葉がいくつか書かれているのですが、その中にこんな一文がありました。

――その木の性格を、そのまま生かそうと、自然にやってきただけでね。一つのことをつかまえようと、本気で取っ組んでれば、なんかは出てくるものだと僕は思うんです。

これだけの芸術でありながら、芸術をやってやろう、目に物を見せてやろう、といった自意識の跡がみじんもなく、圧倒的な迫力ながら清々しさが残るのは、まさに作家の木に向かう心の在り方によるところなのでしょう。

木と深く向き合った時、自然というものに宿る永遠不滅の真髄に触れたのかもしれません。

もし京都に住んでいたら、毎日通い、もっともっとそれに触れていたいと思う時間でした。

お土産も充実。可愛いイラストのポストカードを買いました。 
鍵善良房の「よりょう」と名付けられた落雁は、四稜棗をモチーフに、木工作家の佃眞吾さんが木型を作られたそう。美しい白が印象的なお菓子です。