「これから」の社会がどうなっていくのか、100年時代を生き抜く私たちは、どう向き合っていくのか。思考の羅針盤ともなる「教養」を、講談社のウェブメディア 現代ビジネスの記事から毎回ピックアップする連載。
今回は、さまざまなメディアでご活躍中のコラムニスト 堀井憲一朗さんの「日本人の英語」に関する記事をお届けします。

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2020年、この国の教育が劇的に変わる。その理念は「自分で考え、表現する人間を育てる」ことにあるそうだ。

「画一的な詰め込み教育」からの離脱が子どもたちに何をもたらすかを考えた前回に続き、今回は、教育改革のもうひとつの大きな柱である「国際化(英語教育)」問題を考えてみたい。

なぜ日本人はいつまでたっても英語が話せるようにならないのか? 答えはこの国の歴史を振り返ればわかるはずだ。
 

英語を習っても話せない問題


「自分で考え、表現する人間を育てる」という目標の他に、もうひとつ今回の教育改革がめざしているのは、国際化である。

東京大学や京都大学が、世界の大学ランキングの位置が落ちてきて、あせっている人たちがいるらしい。国の金をつぎこんだ帝国大学、つまり東大がアジアで1位でなくなったことにショックを受けている。気持ちはわからないでもない。

国際基準に合わせて、日本レベルを上げたがっている。そうしないと日本が世界水準から遅れる。明治以来の〝世界世間さまの目〟を気にする態度からは、とても大きな問題である。

それはわかるが、しかしそれが英語教育の問題に転嫁されている。

英語は読み書きだけではなく、話せるようにしたい。

毎度の提唱です。

英語を習ったのに、まったく話せないとはどういうわけなの、という百年前から言われているポイントがまた問題になっている。

また、その話です。勘違いの効率主義がみんな好きだよな、とおもってしまう。

そもそもの問題は「読み書き」と「喋り」の隔たりにある。

読み書きは頭脳の問題である。一人で部屋に籠もって、勉強すれば何とかなる。

会話は身体である。スポーツと同じで、身体を使わないと覚えられない。周辺環境がとても大きい。

英語だという共通点だけで「読み書き」と「自在な会話」というまったく別の働きを必要とする分野を同じ教科にするのは、おそろしく無理がある。「音楽」と「世界史」をどうせ海外のものだからと同じ教科にしているのと同じである。

英会話は本来、体育・音楽・美術と同じエリアに分類されなければいけない。

その「身体」と「頭脳」の距離をきちんと測ってないところに、英語教育改革の困難が露呈する。
 

本当は誰も本気じゃない?


そもそもずいぶん昔から「英語を読めても話せないのは問題ではないか」と指摘されながらも、その状態が変わってないということは、本気で変えるつもりがないということである。それ以外に説明しようがない。

「英語を話せない日本人を、ぶっちゃけ、どうおもっていますか」

それに対する回答がすべてである。

タテマエとして、つまり他人事としては「話せたほうがいいとおもう」となる。でも、いま必要としていない大人に、近いうちに必ず話せるようになりなさい、と命じたところで、いや私はいいよ、と答える。

それが「日本の英語」の問題のすべてです。

日本で暮らしてるぶんには、日本語があるから大丈夫。誰も日本語を捨ててまで、英語を生活の中心に置きたいとは考えていない。

ただ、必要な人は英語を覚えておいたほうがいい、とはおもっている。

いま、自分が必要に駆られてないのなら、覚えようとはしない。そのどっちの比重を大きく取るのかというだけの話である。

ありえないことではあるが、もし本気で、すべての子供に英語を話せるようにしたいのなら、社会を変えるしかない。

「議員になるには、英語で意思疎通ができることが条件で、それを満たしてない場合、立候補ができない」「教員は全員、英語がきちんと話せないとその資格を剥奪する」「会社経営者はかならず本人が英語を自在に操らないと、その地位を保証しない」というような決まりがあれば、おそらく話は違ってくる。

でももうそれは日本ではない。

日本をやめてまで、英語を話す人々を多くしたいわけではない。

つまり本気ではない。

日本では英語を話せなくてもトップに立てる。大金持ちになれる。有名にもなれる。

それで充分である。

仕事で必要としている人以外、日本人は英語を話せないことに、日常的にコンプレックスを感じていない。

日本語だけで通じる同胞の数も多い。

21世紀のいま、日本語が通じる同胞がおよそ1億2千万人。40年で3千万人減っても9千万人である。市場として大きい。日本だけで鎖じたとしても、国内で成功すれば分限者になれる。

 

国際派だけが抱いている危機感


時代は変わっているから、そんな悠長なことを言ってる場合ではない、というのが英語トーク教育推進派の強いおもいであろう。たしかに時代は変わってきている。他国との心理的距離は近くなっている。

しかし、その「対外が迫ってきているというあせり」と「それに対応するために英語を習得する必要性」はべつだん連動していない。〝国際派〟の人たちだけの危機感であり、多くの日本人と連動しておらず、わが国でお馴染みの構図になっている。

そもそも英語で話すということは、身体の能力なので、ピアノを弾けるようになるとか、外野フライを捕れるようになるなどと同じで、繰り返し練習しないといけない。とても好きか、すごく必要性が感じていないと、まず習得できるものではない。

その必要性を痛感させる社会を形成しないで、学生生徒だけに習得しろと言ったって、本気で取り組むはずがない。

大人が、つまり社会が「おれたちはいいけど、きみたち子供は習得しなさい」と言うかぎりは、それはそのまま「僕はいいから、本当に必要なやつだけが習得すればいい」と考えを呼び起こすに決まっている。小手先の対応ですませるだろう。

時代や海外情勢が変わろうと、この国内に根深く巣くう土俗的感情が変わらないかぎりは、いつも同じことである。そして、その感情を変えるつもりはない。そこを変えると日本という国がなくなるのではないかという、根源的恐怖を抱いているからである。

 
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