人生は光と影を繰り返している、というメッセージ
 


パッとしなかったアキだが、北三陸で海女となり、またユイという友達と出会ってアイドル活動を始め、どんどん自我に目覚めていく。一方で華がある存在だったアキの母、春子は、離婚して三陸に戻り、次第にくすぶっていく。また美少女・ユイも、家庭の事情で東京へ出ることができず、なかなか「光」の世界へ羽ばたくことができない。やがて春子とユイは、拒否していた方言を喋るようになり、服装もマイルドヤンキー化。そろって、さほど好きでもない手近な男と付き合うという、これまたヒロイン像同様、リアルな描き方がされている。
一方、アイドルを目指して東京へ行ったアキも、アイドルグループ「アメ横女学園」の“シャドウ”という役割しか与えられず、すんなりと「影」から「光」へと転じることはできない。
やがて明らかになるのだが、実は春子には、若い頃アイドルを目指したものの、歌手のゴースト、つまり影武者に甘んじてしまったという浮かばれない過去があったのだ。後半、春子はこの挫折と対峙し、最終的にうまく昇華させていく。また春子に影武者を務めてもらった女優の鈴鹿ひろ美も、25年の時を経て、「下手でもいい、自分の声で笑顔を届けたい」と被災地でのチャリティーリサイタルに出演し、過去の呪縛から解き放たれている。
 
そしてユイだ。彼女はいよいよ上京することとなり東京へ向かう電車に乗るのだが、あろうことか宮藤は、その電車がトンネルを潜ろうとした瞬間東日本大震災が起こる、という酷な脚本を書いている。トンネルの先にあるはずの風景がなくなってしまったところを目の当たりにしたユイの虚無は、何度見ても胸が詰まるほどだ。本来ならヒロインが経験すべき試練を、ことごとく引き受けてしまったかのようなユイ。しかし彼女も、最後は地元から出られなかったことを逆手にとり、「地元でしか会えないアイドルとして生きていく」と覚悟を決める。このときユイからも「影武者」が消失し、彼女は「本物」となるのだ。


とにかく“個”を丁寧に描いた作品だった


このように『あまちゃん』は、皆が光になったり影になったりを繰り返しながら、やがて影武者から解放される、という過程を丁寧に描いている。一方、物語を通してあまり成長しなかったように見えるアキだが、彼女は「影武者」になりそうな人物を光の世界へと救い出しているのだ。 
 
『あまちゃん』のラストは、北三陸に戻ったアキとユイがトンネルを爽やかに走り抜け、灯台の下に立つというロングショットで終わる。つまり、ヒロイン一人ではなく、ふたりの物語として終わっているのだ。このラストを見ると、人はそれぞれがそれぞれの影武者になったり、なってもらったり、支え合って生きていくものなのだと感じる。
 
また『あまちゃん』にはとても多くの女性が登場したが、皆がそれぞれに魅力的だった。アキの祖母の夏ばっぱもカッコいいし、海女クラブの女性たちもみな強烈な個性を発揮している。その姿は、いわゆる世間が考える母、妻、恋人……、それらの定義に単純に当てはめることはできない。このように『あまちゃん』は、登場人物一人一人の生き方を尊重し、多様性を持たせていた。決して「これが女の生きる道」と強調することもない。だからこそ『あまちゃん』は朝ドラの歴史に新しい風を吹き込み、多くの新しい視聴者を掴んだのだろう。

 

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