「演劇」を活用し、さまざまなコミュニケーションで教育活動を行ってきた劇作家で演出家の平田オリザさん。大学入試改革にも携わっている平田さんは、演劇を学ぶ初の国公立大として、2021年度に開校する予定の国際観光芸術専門職大学(仮称)の学長就任も決まっています。連載「22世紀を見る君たちへ」では、これまで平田さんが「教育」について考え、まとめたものをこれから約一年にわたってお届けします。
===================================

前回書いた大阪大学のリーディング大学院プログラムの選抜試験は、なにも演劇だけを行ってきたわけではない。

以下、実際の試験内容。

■映画を創らせる試験
一、シナリオ、絵コンテの作り方を伝授する。
 その際に、この試験の条件として、以下の二つを示す
・撮影は会場となる宿泊施設内で行うこと
・撮影は順撮り(実際の作品の時間経過のままに撮影をしていく方法)で行い、編集はしないこと
二、シナリオ作成とロケハン(撮影場所を決める取材)を繰り返す
三、シナリオにOKが出たら絵コンテ(実際の画面を絵で描く)を制作
四、絵コンテにOKが出たら、動画機能付きのデジタルカメラを各チームに一台渡して撮影
五、全チームで鑑賞会を行い講評

この試験はグループワーク、特に作業分担などの能力を見る点では非常に優れていた。
 

■紙芝居を創らせる試験
まず朝永振一郎先生が1949年に書いた、光の性質を説明するための戯曲『光子の裁判』と、最先端の量子力学などの資料を提供する。スーパーサイエンスハイスクールの高校2年生を対象として想定し、光の性質を説明する紙芝居を創らせる。

光の性質を説明するのには、論理性だけでは不十分である。だからこそ朝永先生も、これを戯曲という形にしたと思うのだが、そこに思い至ったグループは残念ながら皆無だった。志願者は理系と文系がいるのだから、文系の学生が「何が、どう分からないのか?」を積極的に発言することで紙芝居の精度は増したはずなのだが、試験中に「分からない」と発言することはマイナスと感じているのか、文理融合の強みが発揮できるグループは少なかった。

演劇を試験にした年でも、様々な課題を出してきた。

ある年は、兪炳匡先生の『「改革」のための医療経済学』(2006年、メディカ出版)という263頁にわたる単行本を一冊各自に渡して、その中から一章を選び、それを題材にしてディスカッションドラマを創るという課題。これは、まったく専門外の大量の資料を渡されたときに、直感的に自分と関係のありそうなところを選び取る能力を見る試験だった。

この試験は、一見、医療系の学生が有利なように見える。しかし、この著作には、在日韓国人でご両親が大阪の地域医療に従事してきた兪炳匡先生が、現在のアメリカ型の医療「改革」に警鐘を鳴らしているというバックグラウンドがあり、そのことは「あとがき」を読むと分かるようになっている。私は文系の学生から、そういった視点が出てくるといいなと思ったのだが、「あとがき」を読んだ学生は一人もいなかった。どの章に取り組むかが課題だったために直線的に内容だけを読んでしまったのだろう。

他にも「子宮頸がんワクチン問題の資料を読み込み、ステークホルダーを洗い出してディスカッションドラマを創る」「がん告知と終末医療の問題について家族のドラマを創る」といった課題があった。


このような試験問題を作るために、私自身、世界各国の大学の試験問題を研究してきた。ここで共通して言われるのが、「このような試験問題、すなわち受験準備のできない問題を毎年考えるのが難しい」という点である。余談だが、国立大学の文系廃止といった馬鹿げた議論が未だに飛び交っている。しかし、文系を廃止してしまって、いったい誰が、このような問題を作るのだろうか?

それはともかく、「受験準備のできない問題を毎年考える」ということは、高校側からすれば受験準備、進路指導がやりにくくなるということだ。

 

これまでは「○○大学に入るなら英単語は3000覚えておけ。××大学なら4000、△△大学なら5000だぞ」と教師に言われて、それを信じて勉強し模擬試験を受け、「A判定・B判定・C判定」という判定が出た。さらに進学校には進路指導のうまい先生がいらっしゃって、「じゃあ、おまえここ第一志望な、ここ滑り止めで、とりあえずもう一校くらい受けておくか」というように受験校を決めてきた。

しかしこれまで見てきたように、例えば「レゴで巨大な戦車を作る」という試験にA判定もB判定もないだろう。まったく予測不可能な、準備のしようのない試験になるということだ。

一時流行った言葉を使うならそれは、「地頭」を問うような試験と言い換えてもいい。1、2年の受験準備では太刀打ちができず、逆に子どもの頃から少しずつでも、こういったグループワークに慣れている生徒が有利になる試験なのだ。

「少しずつでも」と控えめに書いたのには理由がある。

文科省が今般の大学入試改革を言い出す以前、もう10年近く前から、私は、おそらくこれからはこういった主体性や協働性が必要となっていくし、試験制度も変わっていくのではないかと語ってきた。そのようなシンポジウムにも幾度となく呼ばれた。

もちろん、こういった改革に反対の方もいらっしゃる。ただし、その論調で論理的なものはあまり聞いたことがない。反改革派の方々は口々に「受験勉強にもいい点がある」と言う。それらはいろいろと理屈はつけても結局のところ、「達成感が得られる」「根性がつく」「集中力が養われる」といった、「それは部活でも、他の場所でも養えるんじゃないかな?」と思えるものが多い。

たしかに従来型の受験勉強で救われる人もいるのだろう。だがそれは改革自体を阻む理由にはならない。

「努力」や「根性」「従順さ」も大事なのだろうが、それそのものが、もはや人生の中で優先順位が低くなってしまっている。これまで掲げてきた「主体性」「多様性」「協働性」などの方が、21世紀の日本社会と国際社会を生きる上では、少なくとも同等か、それ以上に必要なものとなっている。人生にとって必要な能力自体が変化しているのに、受験がそのままでいいわけがない。

4年ほど前に行われた、ある教育改革のためのシンポジウムの席では、地方の某有名進学校の進路指導の先生が、あからさまに怒り出してしまったこともあった。曰く「受験制度はそう簡単に変わらない。文科省はいろいろ言い始めているが変わるわけがない」。だが、その理由は何度聞いても「いままでも変わらなかったから」という一点なのだ。

おそらく、この人たちは変わりたくないのだろうと私は思った。


以前にも書いたように、いまは大学が受験生を選ぶのではなく、高校生が大学を選ぶ時代になっている。夏休みに教授たちがかり出され、地元の高校の進路指導の先生に「生徒をよこしてください」と頭を下げて回る大学も多い。不正とまではいかなくとも、それなりの供応もあり得るだろう。進路指導の先生方には居心地のいい状態となった。

もちろん、ほとんどの先生方は生徒思いであり、進路指導においても、少しでもその生徒に合った大学を選ばせたいと情熱を傾けている。その情熱に疑いはないのだが、しかし人間は、自分も気がつかないような既得権益の座についたときが一番やっかいだ。無意識にその地位を守ろうとし、その正統性の理由を無理にでも探そうとするから。

変われないのではない。変わりたくないのだ。

 
  • 1
  • 2