そして、この身体的文化資本を育てていくには、本物、いいものに多く触れさせる以外に方法はないと考えられている。

これは当然のことで、するどい味覚を身につけさせようとして、子どもに美味しいものと不味いもの、安全なものと危険なものを両方食べさせ、「ほら、こっちが美味しいでしょう、こっちが安全でしょう」と教える親はいないだろう。美味しいもの、安全なものを食べさせ続けることによって、不味いもの、危険なものを吐き出せる能力が育つのだ。

あるいは骨董品の目利きなどを育てる際も、本物、いいものだけを見せ続けると聞く。そのことによって偽物を直感的に見分ける能力が培われる。「身体的」文化資本であるから、できるだけ若いうちから、理屈ではなくセンスを身体に染み込ませていかなければならない。

 

しかし、そうだとするなら、特に私が専門とするような演劇やダンス、オペラやミュージカルなどのパフォーミングアーツは、東京の子どもたちが圧倒的に有利ということになる。これまで述べてきたように、インターネットの時代になり、知識や情報の地域間格差はなくなっていく。すると逆に、生でしか観られない部分で大きな差がつく時代となってしまう。東京の有利さが増幅されやすいと言ってもいい。

たとえば、現在、演劇やダンスが本格的に学べる高校が、日本に60から70ある。しかし、そのうちのおよそ六割が東京と神奈川に集中している。東京、神奈川、大阪、兵庫で八割を占める。地方では教える人材がいないので、コースの開設さえ難しいのが現状だ。

さらに国際水準の舞台芸術の鑑賞という意味では、おそらく東京と地方都市では、アクセスの機会の差は10倍以上ではないだろうか。

そしてもう一点、この身体的文化資本の格差の問題は、(もともとはこちらの方がブルデューが指摘するところなのだが)経済の格差と直結している。

経済格差と教育格差が強い相関性を示すことは、すでに論をたない。しかし、この文化の格差は実はより深刻だ。

教育の格差は、学校に来てくれさえすれば発見はされる。「この子は頭がいいのに家が貧乏で大学に行けないのは可哀想だ」と誰もが思うし、本当に優秀なら奨学金などで支援の道もある。しかし、「身体的文化資本」の格差は発見すらされない。親が美術館やコンサートに行く習慣がなければ、少なくとも小中学生の段階では子どもだけで、そこに行くということは起こらない。

いまや、どんな辺境の地に住んでいても、親が意識層ならば、夏休みなどを利用して子どもを都市部の美術館や博物館に連れて行ったり、音楽や演劇を鑑賞させたりする。しかし、そういったところに通う習慣のない家庭は、まったくそれらとは無縁のままだ。だから地方都市ほど、公的な支援がなければ身体的文化資本の格差が広がりやすい。

日本は、明治以降150年をかけて、教育の地域間格差の少ない素晴らしい国を作ってきた。いや、そもそも江戸時代にも、先進的な地域ほど藩校などを通じて独自の教育の風土を作り上げてきた。

しかしいま、文化の地域間格差と、経済格差の両方向に引っ張られて、子どもたち一人一人の身体的文化資本の格差が急速に広がっている。しかも、それが大学進学や就職に直結する時代になってくる。

2018年の8月、あるシンポジウムで劇作家の岩松了さんと対談する機会があった。一通り話が終わったあとに会場から「どうして岩松さんは演劇を始めたのですか?」という質問が出た。岩松さんは即座に、「演劇が一番、東京っぽい感じだったから」とお答えになった。18歳で長崎から上京した岩松さんにとって、当時の小劇場演劇は、もっとも都会らしい営みだったのだ。

かつて、小劇場や舞踏、ジャズや現代美術などは、地方出身者にとって、東京に出てから触れるべき事柄だった。もちろん格差はあっただろうが、東京でそれらを摂取することで、ある程度キャッチアップの機会が保証されていた。しかしこれからは、それが大学入試の時点で問われるようになる。地方の若者たちは、人生の逆転のチャンスさえ奪われてしまう。

念のために書いておくが、ブルデューの提唱する「身体的文化資本」という概念は、決してポジティブなものではない。これらは主に家庭環境によって与えられる(そして私はさらに、日本においては地域間格差の方が問題だと指摘してきた)本人の努力ではいかんともしがたい「格差」なのだ。

内田樹氏はこの点について、以下のように記している。

しかし、ブルデューが皮肉に指摘していたように、文化資本の逆説とは、「それを身につけよう」という発想を持つことそれ自体が、つまり、文化資本を手にして社会階層を上昇しようという動機づけそのものが、彼が触れるものすべてを「非文化的なもの」に変質させてしまうということにある。「文化資本を獲得するために努力する」というみぶりそのものが、文化資本の偏在によって階層化された社会では、「文化的貴族」へのドアを閉じてしまうのである。

ひどい話だ。

「努力したら負け」というのが、このゲームのルールなんだから。

「努力しないで、はじめから勝っている人が『総取り』する」というのが文化資本主義社会の原理である。

ひどい話だと私も思う。

しかし、日本は確実にそうなりつつある。

『街場の現代思想』文春文庫


ここまでの連載で私は、2020年度からの大学入試改革は、従来型の「努力」が報われにくい入試になるということを書いてきた。理想としては、その方向は間違っていないといまも思う。一生懸命努力する人も社会にいてくれないと困るが、コツコツと努力することは苦手だが発想の素晴らしい人や、なぜか人を和ませられる人も、持続可能な社会には必要だからだ。

しかし、そのために大学の選抜方法を改めようとすると、今度は、努力とは無関係の身体的文化資本を問うことになり、より格差が鮮明になってしまう。

さぁ、これが、2020年度の大学入試改革が抱える根本的なジレンマだ。

そして何より問題なのは、この点が最大の問題点だということに保守派も改革派も気がついていないという点だ。だからみな、制度論についての些末な議論か、あるいは理想論についての対立という神学論争に終始してしまう。

論理的に考えれば、いま取り得る現実的な選択肢は二つだ。

一つは、より格差の少ない、努力を測るような従来型の入試に戻すこと。「努力」は測りやすい指標であり、またこれを指標とすれば、生徒も学校という組織全体も統治しやすい。ただし、しかしこの「逆コース」では、日本社会に多様性は確保できず、おそらく国際競争力も衰える一方となるだろう。

もう一つの選択肢は、大学入試改革を進める一方で、その改革の本質を理解し、子どもたち一人一人の身体的文化資本が育つような教育政策に切り替えていくことだ。そのためには、地方自治体が教育政策と文化政策を一体化させ、特に貧困層に対して文化による社会包摂的な政策を充実させる必要がある。

そして、このことに気がつき始めた自治体も、実際に出てきているのだ。

(つづく)

 
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