唐突ですが、先週いっぱいミャンマーに行っていて、帰国するなり日本政府がトランプさんをノーベル平和賞に推薦していたらしいというニュースを知り、なんかいろいろのけぞる2月末。春めいてきましたが、みなさん、花粉症は大丈夫でしょうか。原稿がぐずぐずしてしまうのは、もしかして鼻がぐずぐずしているからかしら。(違いますけど)

写真:AFP/アフロ


ヒラリーか、トランプか
「ありえない」が起こった瞬間


さて冒頭のニュースを聞いて、私はふと2016年のある1日を思い出しまた。
その日の私は、あるご高齢の外国人映画監督のインタビュー取材をしていました。大酒のみで有名な監督はしばらく私と言葉を交わした末に、「私は君がどんな人間かわかる、酒を飲むんだろう」と、なんやしらん、焼酎の入った小さなグラスを差し出します。どんな取材だと思いつつもちびりちびりとやりながら、取材は愉快に進んでゆきました。一方ご一緒した某通信社の記者の方の関心事は、大統領候補のトランプさんについてのコメントをもらうこと。その日はまさにアメリカ大統領選挙の開票日だったのです。生粋の芸術家でヨーロッパ紳士である監督は、言いました。「ヒラリーは決して良くはない。だがトランプは悪夢だ」。

私が次の質問をしていたその時、記者のスマホに速報が飛び込んできました。画面を見た彼は「ヒラリー勝利です」と言い、それを聞いた監督はグラスを挙げて私たちと握手を交わし、その場は「まあ普通に考えればそうなるのは当然だよな」な空気に包まれました。ところが次の瞬間、通訳の方が自分のスマホを覗いて言いました。「あら、私のほうに来てる速報、トランプ勝利になってる」。いやいやまさかそんな、普通に考えてありえないでしょ、と全員がスマホを確認。「ヒラリー勝利」を伝えた記者の方は大慌てで、いや?あれ?ん?え?となりながら再びネットをチェックし「ええと……あれ、トランプ勝利って出てますね……」。呆然となった監督はテンションダダ下がり。ありえない、アメリカはなんて幼稚な国なんだ、世界はどうなってしまうのか……とインタビューどころじゃなくなってしまったのでした。


2016年はこのトランプ大統領の誕生と、英国の国民投票によるEU離脱決定という、「普通に考えてありえないでしょ」な大事件が起こった年です。もちろんそれまでも「普通に考えてあり得ないでしょ」ということは起きてはいました。でもこれ以降、特に日本においてはそういう事態――大企業や役所のデータ改ざんとか、省庁の政治家のありえない不正とか、超エリート官僚のセクハラとか、有名医大の女子学生に対する点数操作とかが次々と発覚。それまでの「普通」は単なる張りぼてだった、「普通」は完全崩壊してしまった気がします。

ここでいう「普通」が何かと問われれば、それは「知性」とか「品性」のように思います。世の中には様々な本音があるけれど、他人なんかお構いなし、自分さえよければそれでいいと、ただ欲望をむき出しにするっていうのはどうなんだろう、だって僕らは動物じゃなく、人間なんだから。つまり、かつての「普通」はそういうものだったはずなのですが、本音むき出しのトランプさんが「これでいいのだ!」と出現し、世界最高の権力者になってしまったことで、人々は「あ、それでいいんだ」って思い始めてまったんじゃないか。


ジャイアンのリサイタルとご機嫌取りのスネ夫


日本においては一部の政治家の「トランプ化」は特に著しいものです。発言には品性も知性も思いやりも感じられず、何をやってもきちんと謝らず責任を取らず、悪事は認めず開き直ってしらばっくれ、挙句の果てに政府がトランプさんをノーベル平和賞に推薦って。まあそりゃ確かにね、私のような人間はよう知らん政治的な駆け引きが、いわゆるひとつの“アンダーザテーブル”な感じであったのかもしれないけど――結局のところ全世界に自慢げに言いふらされちゃってるし。安倍さんが「普通に考えて、世界に発表したりしないだろ!」と思っている姿が目に浮かびますが、トランプさんこそがそもそもそういう価値観で生きているんだからしょうがありません。

私がどうにもモヤるのが、これが国際政治の世界に見えないことです。自分のタイトルが欲しいお坊ちゃん政治家たちのそのやりとりは、なんというか、歌が下手なジャイアンがリサイタルに出たがり、それをご機嫌取りのスネ夫が手配する、みたいな。それ政治? それ国のため?
知性とか品性とか、もはやそんなことどこにも見当たりません。


私は先週までいて、どこか心洗われたミャンマーの人々のことを思います。国民の多くが敬虔な仏教徒であるミャンマーで、王や為政者よりもずっと僧侶が尊敬されるのは、数百にも上る禁忌を含む厳しい戒律を守り、仏教の経典を学び人々を正しい行いへと導く存在だから。

私がミャンマーに遊びに行くというと、時にうっすらと上から目線で「普通の国なの?」と聞く人がいましたが、それが「私たちの同じような」というニュアンスを含むなら、逆に私たちの国が「普通」なのか、そこから考えねばならないかもしれません。