「ホモ」の噂を払拭しようと…
当時の僕は「ゲイ」という言葉すらよく知らなかったし、学校では「あいつホモらしいよ」などと噂されるときの、「ホモ」という言葉に含まれる侮蔑や嘲笑の響きに、恐怖を感じていた。
つい先ごろ、バラエティー番組で「保毛尾田保毛男」というゲイを揶揄したキャラクターの復活が物議を醸したのは記憶に新しい。僕の世代は、小学校高学年から中学校にかけて、まさしくこの「保毛尾田保毛男」の全盛期だったわけで、当時第二次性徴とセクシュアリティの芽生えを迎えていた多くの当事者が、「ホモ」という言葉でからかわれることに、恐怖を感じていたと思う。
さて、そんな「ホモ」という言葉に怯えていた僕は、ひとつの「賭け」に出てしまう。周囲に同性愛が露見することを恐れた僕は、文通相手である少女への親愛の情を、あくまでも「カタチ」の上で、恋愛として“処理”できないものか、と考えた。そうすることで、学校の中でも「ホモ」という噂を払拭しよう、と思ったのだ。そしてそうした思いを綴った手紙を、夏休みのひと日に彼女へ送ってしまうのである。
中学校という、青春の匂いでむせ返る世界で自らの性と葛藤していた僕は、小学校という無邪気と純粋さのなかにあった少女に救いを求めたのかもしれない。
しかし、純粋な親愛の情を育んできたふたりの文通は、その僕の無謀な「賭け」の手紙によって、気まずくなって終わってしまう。
同性愛者だと確信した瞬間
彼女との文通が、ある意味での拠り所となっていた僕は、その拠り所を自ら失くしてしまったことで、途方にくれていた。途方にくれるいっぽうで、頭のなかでは、ひととは明らかに違う自分を「認めてあげたい自分」と「認めたくない自分」がはげしく喧嘩をはじめるようになった。そんな喧嘩の声に耐えられなくなりそうだったときに、ふと出会ったのが短歌だった。
俵万智さんの歌集『チョコレート革命』である。
書店で『チョコレート革命』を吸い込まれるように手にとった僕は、ぱらぱらと適当にページを捲ってみた。
知られてはならぬ恋愛なれどまた少し知られてみたい恋愛
−俵万智『チョコレート革命』より−
雷に撃たれたようだった。
それ以降、短歌は僕にとっての鏡になり、短歌に自分の思いを映すことで、はじめて自分自身のほんとうの気持ちを知るようになった。そして、僕自身が同性愛者であることも、少女への思いが深い「親愛」であって、決して「恋愛」ではなかったことも、短歌を通じて決定的に気づくことになったのである。
ちなみにその少女、朝吹真理子さんとは、いまではお互いに文学の世界で頑張る者として、そして同じ時間を分け合った親友として、とてもあたたかい関係を紡いでいる。
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