内田篤人/うちだ・あつと フットボーラー。2010年にドイツ・ブンデスリーガの強豪、シャルケへ移籍、不動の地位を確立。日本人初のチャンピオンズリーグ4強入りなど、日本サッカー界にその名を刻む。日本代表としても活躍。現在、Jリーグ・鹿島アントラーズ・主将。


 さる3月27日に「内田篤人 悲痛と希望の3144日」を上梓したことで、普段とは違う経験を少しさせてもらった。普段の私の仕事は簡単に言えば、単独インタビューや囲み取材、ぶら下がり取材など形式はさまざまだが、人に話を聞き、それをもとに原稿など何らかの形にまとめることなのだが、今回は逆の立場に立つ機会をいただいたのだ。拙著についてご紹介いただくために、執筆や取材過程について、または内田篤人という人物についてなど、質問に答える機会があったのである。

 質問する側から、される側へとまわった。つまり、普段とは真逆の立場に立ったわけだ。するとどうしても、単に答える側に回るわけではなく、質問する人を観察し、どうしても自分に置き換えて見てしまう。私だったら、この本の作者に何を聞くだろうか、どういう聞き方をするだろうかということを考える。普段の習性がなんだか抜けきらないのだ。また逆に、質問に答えながら、これは質問者の意図を汲んだ回答をできているのだろうかとも考える。質問者はどう答えて欲しいのか、何を言外に含ませているのだろうか、行間には何が書いてあるのかそもそも行間などあるのか、などと余計なことを考えてしまう。結果的に、回答そのものが要領を得ずあとで少し後悔するのだが、なかなか面白い経験だったなと思う。

 いくつかの質問を受けるうちに気づいてしまったのだが、この本に関して聞かれることは大体この3つに集約されるようだ。

 ・本を書くきっかけは?(なぜ書くことになったのか?)
 ・どのような取材を経ているのか?(3144日も密着したのか?)
 ・内田篤人はどんな人?(内田のどこに惹かれたのか?) 
 
この3つが、きっと多くの方の疑問質問の最大公約数的なものなのだと思う。そこで、これまでに受けた質問をお借りすることにはなるが、この記事ではこの3つの質問に対し私なりにあらためてまとめてみたいと思う。

 

質問1:「この本を書くきっかけは?(なぜこの本を書くことになったのか)」

 

 この質問は、言外に「なぜあなたが書くことになった?」であるとか、「なぜ今なのか?」というニュアンスが含まれているのではないかとも思う。少々卑屈かもしれないが、邪推というほどではないはずだ。
本にも書いたが、内田篤人の取材を初めて約14年半が経つ。また、ドイツで取材するようになってからは約8年半が経過している。取材している中で、どこかできちんとこの手の本としてまとめたいというぼんやりとした希望が私にはあり、口にせずとも内田はそれを感じているだろうと思っていた。

 というのも、だ。本に書いたエピソードの数々をどのように知るようになったかといえば、大きく二つに区別することができる。一つは、雑誌のインタビューや試合後、練習後のミックスゾーンの中で得た情報だ。通常の取材プロセスで話してもらったいわば公式なコメントだ。もう一つは、ちょっとした雑談などの際に話していたことである。他に取材者がいない状況でぽろっと漏らしたこと、非公式ということということもできるだろう。後者の場合、大概は特別にメモをとっていたわけではないが、それでも強烈に記憶に残る話がいくつもあった。

 

 ある時、スポーツ・グラフィック・ナンバーで内田の原稿を書く機会があった。その原稿のためにセッティングしてもらったインタビューの席上で、過去にぽろっと漏らしたとある非公式話について書いてもいいかと聞いたことがある。すると内田は「うーん、それ書きたいよね?そりゃそうだよねえ、でもまたいつか書いて」と言ったのだった。「またいつか」というのは、ごまかしのための言葉ではなく、時がきたらというニュアンスがきちんと含まれているように聞こえた。特に確認したわけではないのだが、内田は、先々に何か私が長いものを書くだろうと思っていたのだと思うのだ。

 でも、いつか書くだろうと思っていても実行に移すのはまた別の労力が必要だ。これはもう、書かなくてはいけないと思ったのは昨年のこと。2018年1月に内田はドイツでの7年半の戦いに終止符をうち、鹿島アントラーズに戻った。内田のドイツでの7年半は、日本人の欧州組としてまとめられては気の毒なほど、特別な結果を叩き出して来た。なにせ欧州チャンピオンリーグ準決勝進出した選手なのだ。日本最高の右サイドバックとして、彼のドイツでの軌跡をまとめておく必要があると思ったからだ。その7年半には光の時期も影の時期もある。それら全てを、本人目線ではなく第三者の目線でまとめることが必要だと思っていた。だから、直接的なきっかけは内田の帰国だった。出版自体は、帰国から1年3ヶ月経ってはしまったが、ロシアW杯を挟んでその後の周辺取材などを含め、必要な時間だったように思っている。