そもそも会話文にする必要があったのか


別掲したのは、2017年5月に大学入試センターから出された『「大学入学共通テスト(仮称)」記述式問題のモデル問題例』というものだ。

※『「大学入学共通テスト(仮称)」記述式問題のモデル問題例』は、大学入試センターのHPにて公開されています。問題、およびモニター調査実施結果の概要はこちら

こちらの「会話文」はもっとひどい。一人一人の発言が異常に長いし、まったくリアルではない。そもそも、こんな会話をする親子がいるのかという根本的な突っ込みもあるだろう。ただ単に、それぞれの論理を、「会話体」に書き換えただけで、これを「会話文」とは呼べない。

 

ところがこれは試験問題だけの傾向ではない。先般、発表になった各社、各教科の小学校教科書でも「対話型」と呼ばれる会話文の教材が多く見られる。しかし、その多くは、果たして会話にする必要があったのかと思う内容だ。
どうも国語教育関係者も、その他の教科の教科書を作る人たちも、大きな勘違いをしているのではないか。
 

学習指導要領の「対話的な学び」とは?


次期学習指導要領の核は、「アクティブラーニング」であり、これを文科省は「主体的・対話的で深い学び」と解説している。『ニッポンには対話がない』(三省堂)、『対話のレッスン』(講談社学術文庫)といった本を書いてきた私としては、「対話」という言葉が指導要領の中核に据えられたことは、我が意を得たりという思いだ。

ただし、少し気になるところもある。まず「主体的」という言葉はもともとあるが、「対話的」というのはあまり聞いたことがない。文科省は何をもって、「対話的」と言うのだろうか。

学習指導要領の解説資料では、対話的な学びについて、「子供同士の協働、教職員や地域の人との対話、先哲の考え方を手掛かりに考えること等を通じ、自己の考えを広げ深める『対話的な学び』が実現できているか」が問われるとしている。わかったようで、よくわからない解説だ。

(つづく)

 

前回記事「“演じる”ことで浮かび上がる「会話文設問」の問題点」はこちら>>

 
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