海外にいる立場でこれを読んでまず感じたことは、人種の多様性が極端に少ない日本ならではだなということです。たとえば、地毛が茶髪の子どもにも執拗に黒髪を求める事例がいくつかでてきますが、多様な文化が存在する国ではそんな校則は考えにくいです。また熱帯地域では強い日差しを年中浴びているせいか、両親が日本人で生まれたときは黒髪でも、髪の毛が茶色っぽくなっている子どもたちもいます。

 

シンガポールの幼稚園が身に着けるものにうるさくないのは、文化によっては幼少期からピアスなどのアクセサリーを常に身に着けているのが普通という人たちもいるからかもしれません。グローバル化し、日本の学校でも外国にルーツを持つ子どもや多様な背景の子どもが増えていくなかで、見た目の均質化を目指す校則は見直していく必要があるのではないかと思います。

日本で校則によって発生している費用負担の大きさにも驚きました。息子の通うインター校では先日年度が終わり、使わなくなった制服を4~5シンガポールドル(400円程度)で他の保護者と売り買いしたばかりです。一方、日本では「いじめの理由になるから」と、きょうだいのおさがりを使うことを禁止する学校、7万円もする指定自転車を利用しないといけない学校があるということです。

そして本書を通じて何度も言われることですが、校則は本来、生徒たち自身もその決定に参画でき、どうあるべきかを議論できるべきです。理不尽な環境に声を上げて変えていく格好の教材なのに、むしろ曖昧な根拠による強圧的な教師の態度でそうした機会が抑圧され、失敗体験につながっていることは非常に残念です。

日本の教師の労働時間はOECD諸国で群を抜いて高く、教師の負担を減らしていくことも重要な課題となっています。これらとともに、本著などの問題提起が日本の学校を変えていく契機につながることを切に願います。

前回記事「共働きも専業もしんどいのは「自分で高水準を求めた結果」なのか?」はこちら>>

 
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