自分の子どもと会いたいだけなのに、
そのためには、いわゆる「普通の大人の女性」でなければならない葛藤


夏子が子どもを持つ上では、もうひとつの大きなハードルがあります。それは彼女に男性への肉体的な欲望がないこと。好きな男性と話をしたり、寄り添ったりしたいという気持ちはあるけれど、セックスはしたくない。愛する男から女は求められたら嬉しいものー という価値観を刷り込まれた夏子は、そうできない自分に罪悪感を覚えます。

「夏子は小説家を目指していますが、その本棚にはヴァージニア・ウルフも津島佑子もない。小説が好きだといった時に手に取れるものが、男性作家の本しかないんですよね。そういう文化資本も経済資本も何もない環境で、夏子は、女性であること、貧困家庭であることの様々を、内面化して育ちました。もし彼女が”内面化”という言葉を知っていたら、自分の違和感の正体をある程度理解し、整理することができたかもしれません。でも彼女はその言葉を知る機会も、なかったんですよね」

ただ自分の子どもと会いたいだけなのに、そのためになぜ男性の性欲に応えなえればいけないのか。男性の欲望にかかわりながら生きなければいけないのか。そうでなければ子どもを持つことは許されないのか。葛藤する夏子が、寝入りばなや白昼に見る夢は、小説のひとつの読ませどころです。

 

小説家・川上未映子 1976年大阪府生まれ。2007年『わたくし率 イン 歯ー、または世界』『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』で早稲田大学坪内逍遥大賞奨励賞、08年『乳と卵』で芥川賞、09年詩集『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』で中原中也賞、10年『ヘヴン』で芸術選奨文部科学大臣新人賞、紫式部文学賞、13年詩集『水瓶』で高見順賞、『愛の夢とか』で谷崎潤一郎賞、16年『マリーの愛の証明』でGRANTA Best of Young Japanese Novelists、『あこがれ』で渡辺淳一文学賞を受賞。他の著書に『すべて真夜中の恋人たち』、『きみは赤ちゃん』、『みみずくは黄昏に飛びたつ』(村上春樹氏との共著)、『ウィステリアと三人の女たち』など。17年には「早稲田文学増刊 女性号」で責任編集を務めた。


最底辺の暮らしで自分と姉を育ててくれた母と祖母、銭湯で再会したトランスジェンダーの元同級生、セックスレスが理由で別れた元恋人、夫を憎みながら形だけの夫婦を演じる友人、  AID(非配偶者精子提供)によって生まれた青年、シングルマザーの人気小説家ー そこだけが無時称(現在形)の文章の中、彼らの言葉や行動が夏子の記憶や意識とまじりあって作る奇妙な幻想は、その時々に夏子に訪れる「何か」を予感させます。

「物語は、夏子による一人称の語りで進みます。言葉を持たない一人の女性が、満身創痍になりながら選び、前に進んでゆく姿を描くことで、読者の中に言葉にならない”何か”が蓄積されていくといいなと思います」

インタビューは後編へ続きます。

 

<作品紹介>
『夏物語』

著者 川上未映子 1850円(税別)

生まれてくることの意味を問い、人生のすべてを大きく包み込む、泣き笑いの大長編。
大阪の下町に生まれ育ち、小説家を目指し上京した夏子。38歳になる彼女には、ひそやかな願いが芽生えつつあった。「自分の子どもに会いたい」――でも、相手もおらんのに、どうやって?
周囲のさまざまな人々が、夏子に心をうちあける。身体の変化へのとまどい、性別役割をめぐる違和感、世界への居場所のなさ、そして子どもをもつか、もたないか。悲喜こもごもの語りは、この世界へ生み、生まれることの意味を投げかける。パートナーなしの出産を目指す夏子は、「精子提供」で生まれ、本当の父を探す逢沢潤と出会い、心を寄せていく。いっぽう彼の恋人である善百合子は、出産は親たちの「身勝手な賭け」だと言う。「どうしてこんな暴力的なことを、みんな笑顔でつづけることができるんだろう」苦痛に満ちた切実な問いかけに、夏子の心は揺らぐ。この世界は、生まれてくるのに値するのだろうか――。

芥川賞受賞作「乳と卵」の登場人物たちがあらたに織りなす物語は、生命の意味をめぐる真摯な問いを、切ない詩情と泣き笑いの極上の筆致で描き切る。
ページを繰る手が止まらない、エネルギーに満ちた世界文学の誕生!

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撮影/塚田亮平
ヘア&メイク/吉岡未江子
取材・文/渥美志保
構成/川端里恵(ミモレ編集部)
 
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