「正しいか」「間違ってるか」だけじゃない
小説を読んだ時間が残してくれること
「個人の倫理は、その時代その時代のコンセンサスみたいなもので作られているもので、もしかしたら100年後には、現在のあたりまえの家族の形は、過去の流行の1つとして記憶されているかもしれません。人工子宮が一般的になったら、出産と育児を必ずしも女性が担うとは限らないし。中国の医師によって生まれた”ゲノム編集された双子”とまではいかなくとも、結婚前に互いの遺伝子情報を提示するというようなことは、海外ではすでに行われています。遺伝子操作でよりゴージャスな子どもを作ることも可能になるかもしれない。技術が発展してゆく中で、子どもを作るということは本当のところ一体どういうことなのか。誰のためのものなのか。今も考えつづけています」
とはいうものの、川上さんが言うように「生まれることは取り返しがつかないこと」だからこそ、うまく言葉にできない違和感はぬぐえません。文学が担うところはそこではないかと、川上さんはいいます。
「学問的な理論やオピニオンが、すごく力を持つ瞬間がありますよね。あなたが陥ってるのはこのシンドロームで、こういう傾向があって、これはあなたの問題じゃなく構造の問題なんですよと説明されると、気持ちに整理がつく。でも物語として受け取ったことは、オピニオンとは異なるゆっくりとしたタイムリリースをくれると思うんです。小説の価値は“正しい”“や”間違ってる”とは違う。あの時のあの人の葛藤、あの人の表情、あの時の空気感。読み手の想像力を総動員して、ある物語と一緒に歩んだ時間が、理屈とは違う何かを残してくれる。
例えば善百合子の言い分。すごくラディカルだけれど、私は彼女の言うことがよく分かります。例えば、『生きていてもいいことなんて何もない、なんで生まれてきてしまったんだろう』という人は、特に若い世代には少なくないと思う。私たちの世代だって“こんな世界に子どもを産むことがいいこととは思えない”という人はとても多いと思う。もちろん、やっぱり子どもを産みたいと思う人もたくさんいます。いずれにせよ、みんなにとって当たり前のことなんて本当はなくて、一人ひとりの生き方、考えかたがあるだけ。そういうことが、物語として届くといいなと。
読んでいただくうちに、登場する人たち全員の考えに、少しずつ共感する部分が出てくると思います。でもそんな中で、結局のところ人間は、自分の人生としてはひとつしか選択することができない。小説を読むことは、そうした事実の真摯さと滑稽さと、それからやっぱり生きていくんだという思いを再確認する機会でもあるのかもしれません」
小説家・川上未映子 1976年大阪府生まれ。2007年『わたくし率 イン 歯ー、または世界』『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』で早稲田大学坪内逍遥大賞奨励賞、08年『乳と卵』で芥川賞、09年詩集『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』で中原中也賞、10年『ヘヴン』で芸術選奨文部科学大臣新人賞、紫式部文学賞、13年詩集『水瓶』で高見順賞、『愛の夢とか』で谷崎潤一郎賞、16年『マリーの愛の証明』でGRANTA Best of Young Japanese Novelists、『あこがれ』で渡辺淳一文学賞を受賞。他の著書に『すべて真夜中の恋人たち』、『きみは赤ちゃん』、『みみずくは黄昏に飛びたつ』(村上春樹氏との共著)、『ウィステリアと三人の女たち』など。17年には「早稲田文学増刊 女性号」で責任編集を務めた。
<作品紹介>
『夏物語』
著者 川上未映子 1850円(税別)
生まれてくることの意味を問い、人生のすべてを大きく包み込む、泣き笑いの大長編。
大阪の下町に生まれ育ち、小説家を目指し上京した夏子。38歳になる彼女には、ひそやかな願いが芽生えつつあった。「自分の子どもに会いたい」――でも、相手もおらんのに、どうやって?
周囲のさまざまな人々が、夏子に心をうちあける。身体の変化へのとまどい、性別役割をめぐる違和感、世界への居場所のなさ、そして子どもをもつか、もたないか。悲喜こもごもの語りは、この世界へ生み、生まれることの意味を投げかける。パートナーなしの出産を目指す夏子は、「精子提供」で生まれ、本当の父を探す逢沢潤と出会い、心を寄せていく。いっぽう彼の恋人である善百合子は、出産は親たちの「身勝手な賭け」だと言う。「どうしてこんな暴力的なことを、みんな笑顔でつづけることができるんだろう」苦痛に満ちた切実な問いかけに、夏子の心は揺らぐ。この世界は、生まれてくるのに値するのだろうか――。
芥川賞受賞作「乳と卵」の登場人物たちがあらたに織りなす物語は、生命の意味をめぐる真摯な問いを、切ない詩情と泣き笑いの極上の筆致で描き切る。
ページを繰る手が止まらない、エネルギーに満ちた世界文学の誕生!
ヘア&メイク/吉岡未江子
取材・文/渥美志保
構成/川端里恵(ミモレ編集部)
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