川上未映子さんの最新刊『夏物語』の主人公・夏子は、異性とのセックスに違和感を持つ女性。40歳を目前にした彼女は「自分の子どもを持ちたい」という思いに駆られてゆきます。そして見つけたのが「AID(非配偶者間人工授精)」という方法。
女性が「子どもを持ちたい」と思ったとき、その前段階として「男性の性欲の対象になること(言い換えれば、そうなるよう努力すること)」「男性とセックスをすること」が前提となっているのではないか、だとすると、男性とセックスができない女性は、あるいはしたくない女性は、子どもを持つ資格さええられないのでしょうか。
今回、川上未映子さんが『夏物語』で挑んだのは”生殖倫理”。着想の経緯や小説にすることに意義についてお話を伺いました。

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“産まれること”は“死ぬこと”と同じくらい取り返しがつかないこと


「私は物心ついた時から、死ぬこと、いつか全部が終わることの“取り返しのつかなさ”に心の底から驚いていました。そして”生まれてくること”も、実はそれと同じくらい取り返しのつかないことなんじゃないかと。今回の作品で”生殖倫理”を描こうと決めたときに、『乳と卵』に登場した、”小さな反出生主義”のようなキャラクター、緑子を、もう一度ちゃんと書いておくことが大事だなと思いました」

2008年を第一部に、2016~2018年を第二部にした二部構成で描かれる『夏物語』。その第一部は川上さんの10年前の芥川賞受賞作『乳と卵』をベースにしたものです。「豊胸手術をしたい」と言い出した39歳の母・牧子に、思春期真っ只中の娘・緑子は嫌悪感を抱く一方で、「みんな精子と卵子をくっつけることをやめたらいい、生まれてこなければ、うれしいや悲しいや、さよならもないのだもの」と思うようになります。

こうした思いは、第二部で登場する善百合子というキャラクターに、より激烈な形で引き継がれます。夏子は、男性とのセックスに違和感を持ちながら、それでも「子どもに会いたい、一緒に生きてみたい」と思い続け、AID(非配偶者間人工授精)という方法にたどり着きます。善百合子はその過程で知り合ったAIDで誕生した女性で、それゆえに壮絶な人生を歩んでいます。

「日本でも年間数万人の子どもが人工授精で生まれており、ポピュラーな治療になっています。AID(非配偶者間精子提供)も不妊治療のひとつとされていますが、しかし様々な問題があることを知りました。この治療は70年前から始まり、今では1万人以上の方々がAIDで誕生しているのですが、事実を知らされることなく生活していらっしゃる方がほとんどです。もし事実を知ったとしても、生物学的な父に辿り着けることはほとんどない。生まれてきた子どもたちの知る権利について議論されることがないままここまで来て、『自分の半分は一体どこから来たのか』、今もずっと苦しんでいらっしゃる方々がいます」


子どもの誕生に
“お父さんとお母さんの愛があるかないかは、大きな違い”
は本当か


自身の「子どもに会いたい」という気持ちに導かれ、夏子は様々な人の意見、生き方に触れ、自分が子どもを持つことについて様々に考え始めます。

例えば、現時点で夫婦間に限りAIDが許されているのはどうしてでしょうか。結婚もせずに子どもを産むなんて身勝手と言われればそうかもしれませんが、例えば後継ぎとして必要とか、一人っ子よりは二人のほうがという理由で作られることは、親の身勝手とはいわないのでしょうか。

子どもを産み育てるなら、きちんとした家庭環境があるべきという人もいるでしょう。ところで”きちんとした家庭”ってなんでしょう。男女一対の夫婦がいて、子どもを育てられる経済的な余裕があるということでしょうか。でも経済的な余裕や愛がなくても、夫婦がセックスすれば子どもは生まれます。そして私たちは”きちんとした家庭”に、身勝手な親がいないと言い切れるでしょうか。両親は必ずしも愛し合っていて、子どもが虐待されることがないと言い切れるでしょうか? 昨今世間を騒がせた親子間の陰惨な事件は、”きちんとした家庭”で起こってはいなかったでしょうか。

「子どもの誕生に”お父さんとお母さんの愛があるかないかは、大きな違いや”と、夏子の姉・巻子が言うわけですが、そう考える人はすごく多いですよね。でもそれは幻想である部分も大きい。私たちに一番多く供給されている物語が”愛し合う二人が結ばれる”というものであるだけ、他の物語を知らないだけなんですよね。一対の男女による恋愛・結婚・生殖を1セットとして考えるのはある種の『思い込み』や『癖』のようなものでしょう。現実はもっと多様で、もっと複雑で、もっと流動的なのに」

そうした形が崩壊した家族として、物語は第一部で夏子の幼いころを描きます。ほとんど顔も知らない父親の借金を背負い、夜逃げして母の実家に転がり込んだ、母と姉妹。祖母、母、9歳年上の姉・巻子、夏子の女所帯は、みんながみんな働き詰めなのに暮らしは最底辺。どこからどう見ても”きちんとした家庭”とは程遠いその家族には、それでも笑顔が絶えず、時に痛々しいほどの愛情に胸を突かれます。

 
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