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雅子さまの小学校時代の作文を公開「ピアノ、スポーツ、生きものがお好きなおてんば少女」

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外交官は海外での勤務を経て、やがては日本に帰国します。そのとき、幼い子どもたちが日本語を忘れていたら大変です。海外にいても子どもたちが日本語を忘れないようにするために、親はたいへんな気配りや努力をします。
雅子さまの場合はどうだったのでしょうか?

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モスクワ、ニューヨーク暮らしから帰国


昭和46年(1971年)3月、父恆さんの本省勤務のため、一家は2年10カ月のニューヨークでの生活を終えて帰国しました。モスクワからニューヨークと5年余りの海外生活でした。東京へ帰ってきた雅子さんの家族は、新宿区にある3LDKの外務省官舎に住むことになりました。
雅子さんは、目黒区立原町小学校1年に編入し、さらに新宿区立富久(とみひさ)小学校に転校します。当時担任だった中坪静子先生は、初登校の雅子さんの様子をこう語ってくれました。

「ゴールデンウィーク明けの5月6日、雅子さんは、私のクラスに入ってきました。お母さんとご一緒でしたが、他の子どもたちよりずっと大人びた落ち着いた印象でしたね」
その日は4時間目が道徳でした。雅子さんが転入してきた日だったため、「転校してきた人を思いやる」という題で、クラスで話し合いをしたといいます。最初が「大人びた落ち着いた印象」だった雅子さんは、中坪先生の記憶に長く残りました。

長期の海外勤務を終えて帰国した子どもを日本の学校になじませるためには、親も受け入れ先の学校も大変な努力が必要になります。ある外務省のOBは、こう語っています。
「まず日本語の勉強です。家庭では日本語以外は話しません。童話や絵本で、相当読み書きを勉強させていたつもりでも、やはり日本で育った子どもとは大変な差がついてしまうのです。
とくに、地名が難しい。『神戸』は『こうべ』と読むと頭では分かっていても、『かみと』と読んでしまうのです。それに西暦と和暦の違い。突然聞かれても、すぐに出てきません」


日本で受けたカルチャーショック

雅子さま7歳。双子の妹たちとブランコに。軽井沢のホテルにて。写真/宮内庁提供

雅子さんが帰国して感じた幼いなりのカルチャーショックは、大変なものであったと思います。
「入学式って何?」
「運動会って何?」
「男の子と女の子が仲よくしていると、みんながはやし立てたり、冷やかしたりするのはなぜ?」
雅子さんは、優美子さんに次から次へと質問し、母は娘にわかるまで何度も説明します。こんな情景が、親子の間で繰り広げられたことでしょう。

優美子さんが、モスクワやニューヨークで娘たちに日本語を忘れないようにと払ってきた努力は、ひと通りのものではなかったと思います。海外生活のなかで、正月の行事、ひなまつり、七夕などは、毎年必ず家庭で行ったといいます。
姑の小和田静(しずか)さんや実母の江頭寿々子(すずこ)さんも、3人の孫に日本から童話の本や浴衣、人形などを送り続けてくれたそうです。
富久小学校2年3組のクラス文集に、雅子さんの作文が残っています。

「雪がっせん」
                         小和田雅子

きのう、学校のおく上で、雪がっせんをしました。
わたしは、なかがわさんと 大きい玉を 作っていました。そうしたら、中川さんが
「男の子たちにこれ、あてちゃおうか。」
と いったので、わたしは、
「そうしよう。」
と いいました。その玉は 長まるで、たては五十センチぐらいで、よこは二十センチぐらいでした。
 わたしたちは、ほっ田くんに あてたので ほっ田くんは びちょぬれになってしまいました。
 わたしは、しかいし(原文ママ)がくるかなぁと思いましたが、きませんでした。だから、ほっとしました。
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