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スポーツ万能の雅子さま「中学時代に熱中したソフトボールとスキー」

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ソフトボール部のスター

中学1年の夏、家族で白馬岳に登山。写真/宮内庁提供

中学2年から仲間と始めたソフトボール部で、雅子さんは4番でサード。常にクリーンアップのメンバーでした。ソフトボール部は自分から学校に交渉して創設した部。それだけに思い入れも強かったのです。
サードからファーストに送球するボールは、なかなかスピードもあり、かっこよかったそうです。雅子さんの練習ぶりを一目見ようとする下級生たちが、校舎の窓にずらりと並んだといいます。

学校の裏には巨人軍の多摩川グラウンドがあり、美術の時間に写生の場所探しと称して、仲間と一緒に巨人軍ウォッチをしたこともありました。
そのころは長嶋茂雄が監督に就任したばかりで、世の中は巨人ブーム。雅子さんも大の巨人ファンで、高田繁選手の写真を下敷きに挟んで持って歩いていたという中学生らしいエピソードもあります。

田園調布雙葉中学校はお嬢さま学校で知られるだけに、制服を着たまま立ち寄れる店は限られていましたが、雅子さんは学校の帰りに許可されていた書店で、よく野球雑誌の立ち読みをしていたといいます。
中学2年生のころには、一時、大洋の長崎慶一選手に注目したことも。母の優美子さんと、川崎球場で「巨人―大洋戦」を観戦したりしています。

これほどの野球ファンでしたから、中学2年のときに、雅子さんが中心になって学校側と交渉し、これまでの「ソフトボール同好会」を対外試合のできるソフトボール部」に昇格させたのです。ほんとうは野球部にしたかったのですが、学校側からの許しが出ず、ソフトボール部になったといいます。

練習は週3回。朝、昼休み、放課後に行いました。そのころのチームメイトは、当時の様子をこう振り返ります。
「うちの体操服はダサい感じなのですが、背の高いオワは、脚がとても長いので、すてきに着こなしていました」
宝塚ファンが男役スターにあこがれるように、下級生が雅子さんにあこがれを抱いたのも無理はありませんでした。


自分で選んだことは苦しくてもやり通す


雅子さんには、驚くほど粘り強い一面もありました。
夏休みの合宿で、練習中にねん挫したときのことです。指導の先生が、
「明日から練習は休みなさい」
と声をかけても、雅子さんは、
「休みません。練習を続けさせてください」
と言って譲りません。
雅子さんと先生の押し問答は続きましたが、結局先生に説得されるかたちで帰宅しました。
家路につく雅子さんの心のなかは、練習ができない残念さ、先生の言葉に従った無念さなど、思春期のさまざまな感情が入り交ざったことでしょう。
 
雅子さんがこれだけ情熱を注いだソフトボール部でしたが、彼女自身は、部長やキャプテンに立候補していません。雅子さんは、常に17から18人いる部員のムードメーカーを務めていました。
「みんな、声を出そうよ」
と率先して気合を入れます。試合に負けると、
「みんな、グラウンドに残ってもう少し練習しようよ」
と声を掛けます。
15歳の少女には、「自分で選んだことは苦しくてもやり通す」という資質が、
すでに芽生えていたのです。