酒井順子さんによる書き下ろし連載。50代を過ぎると“結婚”という制度に固執しなくて良いことも増えてくる一方、不安が残るのは老後、そして死後のこと……。未来から見たらまだ「若い」今、考えておくべきこととは。

 
 


恋愛の「8050問題」


50代独身で特定の相手はいない、という人もまた、結婚に対して積極的ではありません。ずっと実家暮らしであったり、またずっと一人暮らしであったりで、生活ペースは既に安定している。若いうちであれば、恋愛などをして生活が激変するのもまた楽しいと思うことができたけれど、今からそれはもう無理、などと。

男性と女性で、意識が異なる部分もかなりあるようです。女性の場合、恋愛相手とか茶飲み友達のようなお相手がいてもよいと思った時、「相手はやっぱり同世代かしら」と考えていても、結果的に候補として紹介される男性が、若くても60代だったりするのでした。
ということは、相手からはほとんど介護要員として期待されているわけで、後妻業などを考えていない限り、積極的に関わりたくはないのが正直なところ。

対して男性の場合は、50代独身でも、お相手に30代を求めていたりします。よほど先方がお金を持っていない限りは、30代女性も50代男性とは積極的に付き合いたくはないわけで、そちらもやはり不首尾に終わる。

同世代の女友達がある時、
「この前、沖縄のブセナテラスに男の人から誘われたんだけど……」
と言うので、
「いい話じゃないの!」
と色めきたてば、
「でもその人、80代なのよ……」
と、暗い顔をするではありませんか。「私、もう80代からしか女としては見られないっていうことなのかと思ったら、すごくショック。むしろ誰からも誘われない方がマシ」と、彼女は落ち込んでいます。

その気持ち、非常によくわかります。自分の中で、「あ、いいな」と思う相手は40代男性だったりするのが、50代の女。とはいえ冷静になれば自分は50代なわけで、「40代男性はもっと若い女性を求めるだろう。高望みをするのはやめよう」と、妥協しているつもりで50代男性に照準を絞っている。……というのに、こちらを相手にしてくれるのは50代ではないどころか60代でも70代でもなく、80代男性だったとは。

やはり男性は、何歳であろうとうんと年下の女性が好き。そんなことは30年前からわかっていて、自分が若い頃は、そんな男性心理に乗っかって、いい思いもしてきた。……が、「80代と一緒に高級リゾート」というのは、いくら50代でも、ちとキツいものがあります。我々は「8050問題」の当事者世代でもあるので80代には親しみを持ってはいるのですが、しかし80代のお世話をするのは親で精一杯。家の外までには手が回らないのでした。

50代で独身で、というのは、このように非常に微妙な立場なのです。心の中では、「結婚まではしなくても、特定の相手がいたらいいな」と思っても、いざ探すとなったらうんと年上の人しかいない、とか。その前に、「今さらお相手がほしいとか、恥ずかしくて言えない」と、積極的になれない人もいます。

寂しさの質も、30代頃とは違っています。
健康や体力や仕事の面など、昔は存在しなかった不安を抱えての「一人」という状態は、若い頃の「一人」とは異なる。高齢者の域に入ってしまえば、配偶者と死に別れたりしてシングルに戻る仲間も増えてきましょうが、まだその年頃までは間があるため、もやもやとした気分が続く……。


独身・子ナシ派の最後の心配ごと


子育てが忙しかった頃は疎遠になっていた既婚子持ちの友人達は、50代ともなると子育てを卒業する人が増えてきます。独身者ともまた一緒に遊ぶようになってくるのですが、しかし冷静に考えると、彼我の立場は大きく異なるのでした。

既に親などを見送った経験を持つ人も多い我々、「子供というのは、親を無事に死なせるために存在するようなもの」という実感を覚えています。となると、子ナシの者は「私は、どうやって死ぬのかしらねぇ」という不安を、覚えずにはいられないのです。

子アリの友人達は、
「子供がいたって、面倒見てくれるとは限らないわよ」
「迷惑かけたくないしね」
などと気を遣って言ってはくれますが、しかし最近の親子というのは皆、仲良しですから、死に際した母親を、丁寧にケアしてくれることは間違いない。もしそれほど仲良しではない親子であっても、親が死んだらさすがに放置はしないでしょう。一応きちんと燃やして骨をどこかに納めるくらいは、してくれるのではないか。

しかし子ナシ派は、マジで「独身老女の腐乱死体」と化す危険があります。30代の頃は、のんきに「腐乱も辞さず」などと言っていた私ですが、しかし今になれば腐乱がいかに周囲の人にご迷惑をおかけするかがわかります。やはり腐乱は、避けねばなるまいて……。

腐乱までいかずとも、「どうするよ、この人?」と、身寄りのない死体と化して人々を困惑させる可能性は、大。これから、死の後処理を任せられる子孫を持たない独身者の死はどんどん増えていきましょうから、そうなった時の対策を、子ナシ派は生きているうちから、と言うよりも、自分で考えることができる間に、しっかりと立てておかなくてはなりません。

配偶者とか同居する人というのは、生きているうちの面倒を見たり見られたりする対象となります。私なども、一人でいるのは大好きだけれど、かといってずっと一人で生き続けられるという確信を持つほどは強くないので、「お相手」を求めたのです。

しかしこの先、離別することもありましょうし、女性の場合は、相手に先立たれる可能性が高い。最後に残るのは自分一人となった時に、子供の有無の差は大きくなってきます。

子ナシの我々は、「子供に迷惑をかけるのではないか」という心配は、しなくてもよいのでした。しかし、自分のきょうだいやその子供、すなわち甥姪に迷惑と負担をかけるという心配、を通り越して「恐怖」が待っています。いくら「迷惑をかけたくない」と言い張ったとて、自分で自分の死亡届を出すことはできないわけで、世の甥姪達にとって独身のおじおばの存在は、大きなリスクなのです。

前出の「8050問題」とは、引きこもりやニートの50代と80代の親が、社会から取り残されていく、といった現象のようです。私は今のところ引きこもっておらず、また引きこもったとしても面倒を見てくれる親のいない身ではありますが、しかしこの問題に対しては、他人事とは思えないのでした。

キリギリスが果たすべき最後のお役目とは


それというのも私は、どこにも「所属」をしていない身の上。会社員でもなければ、誰かの妻でも親でも子でもないという、仕事の面以外でも、非常にフリーな立場なのです。「8050問題」の当事者が、どこにも所属していないが故に孤立状態を深めていることを考えると、「明日は我が身」という思いが深まります。

日本は、会社や家庭など、何かに所属していれば安心して過ごすことができる社会ですが、そうでない人の場合はかなりつらい。だからこそ、人は若いうちに何かに所属しておくために頑張り、所属という状態を維持することがつらくても、非所属になる方が大変なので、歯を食いしばって所属状態を続けるのでしょう。

となると私のような者は、「80」の親は既に存在しなくても、単なる「50問題」の当事者になり得る。どこにも所属せず、社会から孤立する単身者は、この先どんどん増えていくこと間違いなし。

ああ、『負け犬の遠吠え』を書いた時は、やはり若かった。あの頃は、結婚さえすれば様々な問題は解決するような気がしていました。また結婚をしなくても、まぁまぁ楽しく一人で生きていくことができるようにも思っていたけれど、しかしどんなことにも「その先」があるのです。結婚すればゴールなのではなく、結婚のその先に、さらなる山やら谷があった(らしい)し、独身のまま生きていったら、50代で感じる寂しさは30代とは全く違ったのですから。

いわゆる、バブル世代の我々。「アリとキリギリス」のお話が身にしみるお年頃となりました。バブルの頃、アリさんのことをせせら嗤っていたわけではないけれど、なぜか縁がなくてキリギリス的な生活を続けた今、今度は「キリギリスは、どう死ぬか」という問題が見えてきたのです。

しかしそんなことを考えている今も、未来から見たらまた「若かった」ことになるのでしょう。「一人で死んだらどうしよう」などと不安になるよりも、「一人で死ぬ」ことを前提に準備を進め、「一人でも普通に死ぬことができる」と後世に示すのが、我々に与えられた最後のお役目、ということになるのかもしれません。

前回記事「『負け犬の遠吠え』の誤解【50代独身問題・前編】」はこちら>>