文芸誌『群像』2019年11月にて、最新作『夜 は お し ま い』を上梓した直木賞作家の島本理生さんと、SEKAI NO OWARIのSaoriこと藤崎彩織さんの特別対談が実現しました。藤崎彩織さんが初めて執筆した小説『ふたご』は第158回直木賞の候補にも。出自の異なる同世代の二人の“書き手”が語るジャンルの違いによる表現の違い、そして“純文学卒業”宣言をした島本理生さんの真意とは……。

 
 


島本さんの小説を読むと無自覚な傷に気づかされる


藤崎彩織さん(以下、藤崎) 最初に島本さんとお会いしたのは三年くらい前、共通の知り合いのパーティーでしたよね。私が初めての小説(『ふたご』文藝春秋)を書いていたときで。

ピアノだけが唯一の友達だった中学生女子の夏子と不良っぽい破天荒な高校生男子月島とその仲間たちとの交流を描いた青春小説。『ふたご』 藤崎彩織(SEKAI NO OWARI)

島本理生さん(以下、島本) 私はそのときは執筆されていることは知らず、「SEKAI NO OWARIのSaoriさんだ!」と一人で浮かれていました(笑)。ちょうど自分の本を持っていたので、「よかったら読んでみてください」と差し上げたんですよね。

藤崎 そのときいただいた『よだかの片想い』(集英社)が、すごく面白かったんです。もちろん島本さんのお名前は以前から知っていたのですが、きちんと作品を読んだことはありませんでした。そこからはもうずっとファンです。

島本さんの小説はいつも、「自分は傷ついているのだ」と気づかせてくれる。誰もが持っている、表には現れなくても心の中にずっと引っかかっていたり、深く傷ついていたりすることを、「悲しみ」「つらさ」として自分の中で認めてもいいんだ、と教えてくれる気がします。

顔に大きなアザがある大学院生のアイコ。本の取材がきっかけで映画監督の飛坂逢太と出会い恋に落ちる。切ない恋と成長の物語。『よだかの片想い』 島本理生

島本 ありがとうございます。


罪悪感とは、どこともわからない場所から押し付けられるもの


藤崎 最新作の『夜 は お し ま い』もとても面白くて、たくさんのシーンが胸に刺さりました。一番印象的だったのは、第三話の「雪ト逃ゲル」に出てくる、作家である主人公の独白です。「罰は、罪を犯したから当たるわけじゃない。罪を犯したことそのものが罰なのだ。なぜならこんなにも苦しい。罪悪感がないことも、正しく生きられないことも」。

女という息苦しい性をえぐるように描く連作小説。直木賞を受賞した『ファーストラブ』への序奏も感じられる作者の真骨頂。『夜 は お し ま い』島本理生

罪に対しての意識って、女性と男性でちょっと違うのではと思うんです。女性のほうが男性よりも、罪の意識をより強く感じてしまう気がする。

読んでいる最中、子どものときに大人の男性から、ちょっと変な風に声を掛けられたことを思い出しました。その出来事を、当時の私は親に言えなかったんです。言えないほど怖かったというより、「自分がすごく悪いことをしてしまったのかもしれない」と思ってしまって。傷つけられた側である私のほうが、なぜだか罪悪感を覚えてしまったんです。『夜 は お し ま い』を読んで改めて、「自分の体はこんなにも罪を感じやすいようにできていたんだ」ということを考えさせられました。

島本 私にとって罪と罰、罪悪感は、ここ十年ほどずっと考えてきたテーマです。今回の小説は二つの罪悪感の考え方がベースになっています。一つは、人は生まれながらに罪を背負っているという、キリスト教の原罪。そして二つ目は、精神科医の斎藤学さんの著書にあった言葉で、「人は根拠もなしに罪悪感を抱き、その大きさに見合った犯罪をやってのける」というものです。本でこの言葉を読んだときには、「ああ、その通りかもしれない」と目から鱗が落ちました。さっき彩織さんが挙げてくださったフレーズは、後者から発想を得たものです。普通は悪いことをしたから罪悪感が生まれるものだと思っている。でも罪の意識って、いつの間にか、どことも分からない場所から勝手に押し付けられるものでもあると思うんです。そしてその反動や抑圧で、私たちはしたくもないことをしたり、悪い男に引っかかったり、間違ったほうに振り切れたりして自分を責めてしまう。これって一体何なんだろう、とずっと引っかかっていました。

藤崎 幼少期の体験で性的なトラウマを抱えている人が、性に奔放になってしまうケースも同じことですよね。普通に考えたら性的なことから逃げたくなるはずなのに、リストカットするみたいに傷を重ねていく。

そういう人が実際に私の周囲にもいましたし、自分も同じような気持ちになった経験があるので、読んでいてすごく考えさせられました。

島本 どれだけ言葉で説明しても、理屈では理解されづらい。そういうものを小説で書きたいという思いが強くありました。

『夜 は お し ま い』は『ファーストラヴ』(文藝春秋)よりも先に書き始めた作品なんです。「群像」に連作短篇として第一話「夜のまっただなか」が掲載されたのが2014年のことで、そこから数ヵ月に一度のペースで続きを書いていたのですが、翌年に私が芥川賞の候補になったけど受賞しなかったときに、「純文学は卒業します」という宣言をツイッター上でしたこともあって、第四話の「静寂」を発表した後も、単行本にするのは少し待ってもらっていたんです。

なぜ卒業宣言をしたかというと、以前から、自分が書きたいことは純文学とはちょっと違うんじゃないか、という迷いがずっとあったんですね。だから、それをきっかけにようやくふっきれた感じでした。デビュー以来、純文学とエンタテインメントという二つのジャンルで書いてきて、そのバランスを自分なりにずっと追求してきたのですが、賞というものの下では、明確な線引きが必要になってくる。純文学の雑誌だからこそ生まれた作品もあるけれど、そこで提示や提案される方向性と、自分の本来書きたかったことが全然違うといった場合もけっこうあって、どこかねじれている感覚があったんです。
 

父親を殺害した罪で逮捕された女子大生・聖山環菜。なぜ彼女は父親を殺さなければならなかったのか?  臨床心理士の真壁由紀が事件を題材としたノンフィクション執筆のため真相に迫る。第159回直木賞受賞作。『ファーストラヴ』島本理生

藤崎 文学の世界ってそんな風にパキッとジャンルが分かれているんですね。音楽業界は違っていて、例えば私たちは最初所謂Jロックから入って、だんだんポップスにシフトしていったんです。でも今もJロックのフェスに出させてもらっていますし、曲ごとに全然違うジャンルになることもある。私たちだけではなく、アルバムによって前衛的になったり、ポップに振り切れたりと作風が変わるアーティストは珍しくない。一人のアーティストの作風に、直木賞と芥川賞の振れ幅くらいの差があるのは、音楽の世界ではよくあることだと思います。

島本 確かに、ジャンルごとの線引きは、文芸の世界のほうが強いのかもしれない。エンタテインメントの中だけを見ても、ライトノベルから来た人、一般文芸の人、ミステリー寄りの人と、なんとなくコミュニティが分かれていたりするし、テクニカルな部分も違ったりする。私だって、密室やアリバイ作りといったミステリーのトリックは、とても思いつかない(笑)。

でも振り返ってみると、私の場合は、純文学とエンタメの両方で書かせてもらっていたおかげで、修行に近い経験ができたようにも感じています。推敲の仕方ひとつとっても、全然違うんですよ。すごくざっくり言うと、エンタメは「もっと書き足してほしい」と求められることが多くて、純文学のほうは逆に「説明しすぎるとベタになりすぎるからもっと削ってくれ」と求められたりする。どんどん自分の内に潜っていくような作業を純文学のほうでやり、そこから俯瞰したり、社会的な主題へと広げていきたいときにはエンタメの長編でやる、といったやり方をしていたおかげで、一つのテーマでも切り取り方や視点が多様な作品が生まれていったように思います。

 
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