初めての子ども向き『古事記』は大ベストセラーに!


「子どもは、ほんとうに純なものですよ。水をかき回して日本国ができたという話でも、案外、理屈をつけませんね。こういう昔から伝えられてきた話には、理屈を超えて、なにか子どもの心に訴える力を持っているのでしょうね」

 

子どもたちと歌を歌ったばかりの若やいだ笑顔で語るのは、藤田ミツさん。この談話は、『サンデー毎日』の昭和41年(1966年)2月6日号の記事によるものです。当時、藤田さんは74歳、大阪市阿倍野にある赤橋幼稚園の園長でした。

明治45年(1912年)、日本女子大学を卒業した藤田さんは、幼児教育に取り組みたいという夢を持っていました。しかしながら、当時の世相のままに1年後に結婚。家事と育児に追われ、仕事を持つことなどかないませんでした。
しかし、藤田さんは夢をあきらめませんでした。結婚後17年たってから、貿易商を営むご主人の応援を得て、大阪市阿倍野に幼稚園を設立し、若いころの夢をかなえたのです。

幼稚園を開園したころ、藤田さんは自分が大学で理科を学んだこともあり、『シートン動物記』などを分かりやすくかみ砕いて子どもたちに話していました。しかし、そうしているうちに、小さな子どもたちの心に「これだけは知ってほしい」というものを植え付けたい思いにかられるようになったといいます。

そんなとき、ふと目に着いたのが『古事記』でした。そこで知人の国文学者である大阪府立女子大学の平林治徳学長の指導を受けて、『古事記』を紐解き始めたのです。

「一般に『古事記』といいますが、本当の名は『古事記伝』。『伝』というのは、昔のことを語り伝えるという意味です。私としては、昔のことを素直に後世に伝えていくという、ただそれだけの役割を果たしたかったのです」(藤田さん)

こうして、とりたてて気負いもなく『古事記』の子ども向け翻訳が始まりました。一家の主婦として四男二女を育てながら幼稚園の園長として働き、夜になると机に向かって翻訳する日々でした。
夜遅く、明け方の2時3時までペンをとることもしばしばでした。藤田さんの孫で、現在、赤橋幼稚園の理事長をしている松塚正道さんは、藤田さんの娘である母からその様子を聞いていたといいます。
「子どもたちの記憶に残っている祖母(藤田さん)は、机に向かっている後ろ姿ばかりだったそうです。昼間は幼稚園で働き、家に帰れば執筆ばかりしていたからです」

やがて10年ほどがたち、藤田さんの労作は完成しました。ちょうど時代は昭和15年(1940)、初代天皇である神武天皇の即位から数えて皇紀2600年の記念事業が日本中で行われている最中のことでした。

藤田さんは書き上げた作品に『カミサマノオハナシ』というタイトルをつけて出版しました。カタカナにところどころ漢字が見られる本文に挿絵がつき、腰に太刀を佩いて片手に弓を持ち、髪の左右をみずらに束ねた子どもの神さまのかわいい絵が表紙を飾る、上下二巻の美しい本です。

戦前に刊行された「カミサマノオハナシ」(ソノ一、ソノ二)、昭和17年発行版

初めて出版された子ども向きの『古事記』ということで、『カミサマノオハナシ』は瞬く間にベストセラーとなり、途中から出版元を三省堂に移して5万~6万部売れたといいます。
広告などもあまりない時代のこと、相当な話題の本だったことがわかります。

ところがこの本は、こののち思いもかけない数奇な運命をたどることとなるのです。