研究者として感じる“当事者であること”の大切さ


中野 三浦さんの本の感想は一度連載でも書いているので、今回は自分に絡めたかたちで考えてみたのですが、以前から私は「当事者発信」ということを大事にしていて。もともと社会学では“立場を明らかにせよ”とよく言われるんです。研究者がフィールドワークに入った時点でそのフィールドに影響を与えているわけですから、影響を与えた自分自身についても書かなくてはならない、という考え方です。また取材対象へのインタビューでも、自己開示しながら相手に話してもらうという手法があって、その場合は自己開示の内容も論文に書くんですね。つまり何が言いたいかというと、人が何かを書く際に、自分自身をすべて切り離して書くのは無理だということ。だからこそ、三浦さんがご自身のことを当事者として発信された意味ってとても大きいと思うんです。

 

三浦 ありがとうございます。勇気のいることでしたが、そもそも『孤独の意味も、女であることの味わいも』は、自伝ですからね。

中野:その前に出された『21世紀の戦争と平和』でも、お父様が自衛隊員でいらっしゃることをあとがきに書かれていた。これも自己開示ですよね。あの一文を読んで、三浦さんの問題意識や視点のあり方がすごく腑に落ちたんです。そして今回の『孤独の意味も~』によって、三浦さんのこれまでとこれからの発信の意味が増し、より強い意味を与えてくれると感じました。

三浦 ええ。

中野:私の著書はよく、「数字や統計が少ない」という理由で批判されるのですが、私自身いわゆる統計主義というものがあまり好きではないんです。例えば子どもが病気になった時、お医者さんの「この症状なら99%は重篤化しません」という意見で気が休まることはないですよね。子どもが心配な当事者からすれば、むしろ残りの1%の人がどうなったかを知りたい。

三浦 その気持ちはよくわかります。

中野 だから、三浦さんが過去に性被害に遭って、でも今はちゃんと幸せになっていると発信する価値はすごくある。しかし同時に、とても難しい立場だとも思います。なぜなら、幸せになれるという結果をみせるだけでは、性被害の重みを軽く見せてしまうことにつながりかねないから。でも三浦さんはそういった点をきちんと、誤った解釈を呼び起こさない形で書いてくださったなと思いました。そもそも一人の女性が、すべての女性を代表して女性問題を語れるはずはない。だからこそ、背景となる個人のストーリーを出していかなくてはいけないと意識しています。私の役割としては「都会に生きているキャリア女性の話です」という前置きでいいのではないかと。

三浦 はい。例えば新聞といったパブリックな場所でコラムを持ったら、また違うかもしれませんよね。おそらく、一般的な女性とは、ということに気を遣わざるを得なくなる。でも「すべての女性を代表することはできない」という原理原則を踏まえずに多数派を代弁してしまうと、単に少数派に対する抑圧になることもありますよね。

 

中野 うんうん、そうですね。これまでの、メディアが女性問題を取り上げる時は決まって、ジェンダー論や女性学の第一人者である上野千鶴子さんに話を訊きに行くという状況からは、最近やっと抜け出してきてるかな、とは思うんです(笑)。そうやって語れる女性が多様化すればするほど、まさにそれぞれが女性を代表しなくて済む。

三浦 女性問題の話になると、すべての女性を平均的な像として描こうとする動きも出てきますしね。またその対象は、収入や社会的な成功だけじゃないんです。容姿や性格、行動のパターンまで平均にしたがる。「私たちの実感」といった言葉をメディアは使い過ぎなのかもしれません。本当の意味での「私たち」なんて、現実にはいないのにね。

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世の中の問題に、自身の人生を重ねて伝えるということ。とかく私たちは「自分に近いかどうか」で情報を選びがちですが、本当に大切なことはむしろ逆なのかもしれません。
後編では、声を上げることで受ける痛みや女性同士の格差や対立、これまでとこれからのフェミニズムについて語っていきます。

撮影/片岡 祥
取材・文/栃尾江美
構成/山崎 恵

後編は12月30日公開予定です。

 
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