本質ではない部分で批判されるつらさ


三浦 今回の自伝は一般の方からたくさんの反響をいただきました。ただ、フェミニストの方々がどう読んだのかは聞いてみたかったですね。一応ウォッチしているのですが、ほぼ無反応なので。

中野 まあ、ウォッチはしますよね(笑)。

三浦 メディアの方々にはインタビュー依頼をいただき、本当にたくさんのことをお話しし、心のこもった記事を書いてくださいましたけれど。セクハラ事件のように誰かを糾弾する分かりやすい怒りではない本や物の見方について、皆はどう思うんだろう、というところが知りたかったですね。もちろん、すべてに反応しなきゃいけないなんて決まりはないからそれでいいんですけれど、落ち着いた環境で話し合うことは大事なんじゃないか、と思うんです。フェミニストとして活動している人よりも一般の読者の方が、マスコミよりも市井の人々の方が考えて発信してくれたという事実。こういうところに物事の本質が潜んでいるな、と思いましたね。

 

中野 うーん、なるほど……。

三浦 そもそも女性問題で何が大事かといえば、現実に問題を抱えている女性を救ったり、生きづらさを減らしたりすること。しかしそのために当事者性を明らかにすると、本筋ではないところで批判を受けることがあります。批判はほぼ3つのパターンに分けられましたね。ひとつは「三浦に自分自身の意見などあるはずがない。黒幕の男性がいるのだろう」という偏見。2つめは「恵まれて生きてきた人に、人の痛みはわからない」という意見。3つめは、私の個人的な側面、例えば“女らしさ”みたいな部分へのバッシングです。

中野 恵まれている人は口をつぐめ、という空気はありますよね。私も、先ほどの「勝ち組の涙」のような話をすると高学歴女性のワガママと捉えられることが多いです。高学歴男性のワガママは聞いてもらえるのに。相対的に強い個人の話をしていることには自覚的ですが、それが私の属性と絡み合い「本人が高学歴女性だからこういうこと言うんでしょ」と批判してくる人もいます。議論の中身を見てくれないことも多い。

三浦 属性が違えば、今ある批判は全くあてはまらなくなってしまう。属性がいかに人々の判断を左右してしまっているかということを考えさせられますね。

中野 ただ、そのように批判している人たちが、学歴や年収で最底辺かというと、そうではない。


三浦 そう。例えば大学の教員の年収はだいたい600万円ほどだと思うんですが、30代半ばでそれだけもらえる職業って世の中そんなに多くないですよね。年収1500万円の人々に比べれば恵まれていないかもしれませんが、より深刻なのはもっとずっと低所得層の人々との断絶だと思います。


「ノー」と言える女性を育てられる社会へ


――メディアとしても、絶対的な答えを求める風潮が世の中全体で強くなっているな、という実感は強くあります。しかし一人の人間、一つの答えを信じきってしまうと、世界はいっそう閉塞してしまうのではないかと思うのですが。

三浦 難しいですね。絶対的な答えを求めていると、女性問題でいえば、すぐ二項対立になってしまう。でも人々の意見や価値観は案外真ん中にいて、リベラルや保守にほんの少し傾いているにすぎないんです。どちらが正しいかという議論では、お互いいつまでも相容れない。私は正解を押しつけるより、「ノーと言える社会」を作っていく必要があると思っています。ノーと言える女性を育てることで社会は変わりますからね。

中野 「ノー」が言えない、言いにくい環境がある中で「ノーと明確に言わなかったのが悪い」という論調にすべきではないけれど、理想としては一人ひとりが「ノー」と言える、声を上げられる社会を作っていくということですかね。

三浦 セクハラにしても、その行為のどこに問題があるかはセクハラした側、された側によって一つひとつ違いますから、ひと括りには語れません。もちろん教育などで価値観を変えていくことは大切だけど、性愛自体がさまざまあるなかで、嫌なことをされたら「嫌です」「やめてください」と言えるようになりたいし、なるべきだと思います。こういった意見をすると「弱い立場の被害者にノーとまで言わせるなんて」といった批判が飛んでくるのですが、女性はノーと言う責任も課されるべきではないとするなら、それこそ女性は永遠に自決権を持つことはできませんから。

 
撮影/片岡 祥
取材・文/栃尾江美
構成/山崎 恵

前編「すべての女性の代表にはなれない。だからこそ私は私の物語を語る【三浦瑠麗×中野円佳】」はこちら>>

 
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