実感を伴った「無常」という言葉


年をとると、このように「わからない言葉」が出てくる一方で、「わかるようになった言葉」もあるということを、私は50代になってから実感しています。
たとえば、「無常」。もちろん「無常」という言葉の存在は、若い頃から知ってはいました。物事は全て変わっていく、っていうことでしょ? 当たり前じゃんそんなのは。……という感覚だった。

しかし「無常」と「無情」の違いすらも実は判然としていなかった若い自分は、「変わる」ということの意味を、本当には理解していませんでした。たとえば、「おばさん」や「おばあさん」や「死んだ人」が、自分の地続きのところにいる人だという感覚はなく、「あの人達は、自分とは違う生き物」と思っていた私。若さもまた消えゆくもの、という実感を得ることが、まだできなかったのです。

 

しかし時が経ってふと気がつけば、自分もいつの間にか、おばさんになっていました。卒業式や成人式や入社式のような区切りがあるわけでなく、人はいつの間にかおばさんになっています。このまま生きていることができれば、おばあさんになることも確実でしょう。

身体のあちこちで進む、いわゆる老化現象を見れば、「無常」の意味はまさに“体感”することができます。築後50年経てばビルもマンションも建て替えの時期が来るというのに、生まれて50年経ってもけなげに動き続ける、我が肉体。老化もまた当然の現象です。

肉体のみならず、変化はあらゆるところに訪れます。親が他界したり、自分が結婚したり子を得たりといった、家族状況の変化もありましょう。仕事に友人関係に服の趣味に経済状況と、変わらぬものはない。

目に見えないものもまた、変わっていきます。たとえば、若い頃は簡単に持つことができた「私は大丈夫」という根拠なき自信は、年をとるにつれ、揺らいでいきます。大人になればなるほど、「自信には根拠が必要なのだ」とわかってくるのです。

このように、目に見えるものも見えないものもどんどん変わり続ければ、
「嗚呼、『常』などというものは『無』いって、こういうことなのか」
との実感は強まるばかり。「変わらずにいる」ことが奇跡のようなものだということもわかるのであり、だからこそ中高年の同窓会では皆、
「変わらないねー」
と、符丁のように寿ぎ合うのでしょう。

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【「エモい」と「無常」】後編では、昨今、若者を中心に広がる“感謝ブーム”について考察します。後編は、1月28日(火)公開予定です。

前回記事「孫アリ族と孫ナシ族の分断【初孫ショック・後編】」はこちら>>

 
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