エッセイスト酒井順子さんによる書き下ろし連載。今回のテーマはセクハラ意識。昨年「#Ku Too」のキャッチフレーズで話題となったパンプス強制問題について、強いてきたのは誰なのか……。平成30年を跨いでやっと動き始めたムーブメントに今思うこととは。

 


ハイヒールはさほど歩く予定が無いときに履くものなのでは


「#Ku Too」の運動が起きた時、「おお、そうきたか!」と、嬉しさのような驚きのような気持ちになったものでした。私はフリーの身ですので、誰からもヒールのあるパンプスを強制されることはありません。お葬式などの時以外は、滅多にパンプスを履くこともないのですが、たまに履くとあまりにも「苦痛」。

 

そんな苦痛を、職場で強制されるケースも多いのだそう。世の女性達がパンプスで通勤電車に乗っている姿を見る度に、「よく平気だな」と思っていたのですが、彼女達も本当は、平気ではなかったのですね。

会社の同僚らしき男女が一緒にいるのを見ると、男性の足元は、ビジネスシューズ。女性はストッキングに、パンプス。その、高くて時には細いヒールを見る度に、「男と女が同じ土俵に立っているとは言えないのではないか」と、私は思っておりました。纏足しているかのような不安定な足元で、男性と同じ仕事をこなさなくてはならないのは、ハンデが大きすぎないか、と。

もちろん、
「私は好きでハイヒールを履いているのです」
という人もいます。ファッション誌などを見ると、
「ハイヒールは女の嗜み。毎日履いていれば、ハイヒール筋が鍛えられて平気になりますよ」
といったことを、おしゃれなキャリア女性が語っているのです。が、「#Ku Too」のような動きが出てくると、「ハイヒール=女の嗜み」言説も、クラシックに感じられるようになってきました。

叶姉妹は、ルブタンの靴を「20歩以上歩かない時しか履かない靴」と表現していますが、ハイヒールというのはまさにさほど歩く必要が無い時に履くべきもの。駅までは自転車を漕ぎ、満員の通勤電車に揺られ、さらには営業で外を歩くような女性が履かずともよいのではないか。あと10年も経てば、ハイヒールは着物のように「特殊な機会にのみ身につけるもの」になるのかもしれません。
 


上手に受け流す“受け身”世代とはっきり断る“攻め”世代


そんなわけで、私がストッキングとパンプスを身につける数少ない機会が、葬儀であるわけですが、とある葬儀に参列した時、知人の50代男性と偶然会って、
「あれ、ス、スカートはいてる……!」
と、やたらと驚かれたことがありました。パンプスのみならずストッキングも嫌いである上に寒がりな私は、普段はパンツをはいていることが多く、確かにその人にスカート姿で会ったことはなかったかも。さらに彼は、
「いやぁ、脚を見たのって初めてだから、なんかドキドキするなぁ。普段からもっとスカートはきなよ」
と、まるで幽霊に脚があったのを見たかのように驚いた顔で言います。

彼の発言を聞いて私は、とある感慨を覚えたことでした。それは懐かしさのような、哀しさのような、愛しさのような。

同様の発言を彼が20代の女性にしたならば、20代は露骨に困惑の表情を浮かべたことでしょう。
「こういうセクハラ発言を平気でしちゃうおじさんって、本当に嫌」
と。

しかし我々50代は、彼の無防備な発言を理解することができます。我々が若い頃、会社などではおじさんが平気で女性の容姿を褒めたり貶したりしていました。逆もまたアリで、男性の容姿も、気軽にいじられていたのです。

しかしこの十年くらいの間で、その辺りの意識は激変しています。容姿やプライバシーなどの話題を下手に会話に出すことは、ハラスメント。たとえ褒め言葉であっても、それらについて触れることはタブーになったのであり、平気で口にしてしまうと「昔の人」感が溢れ出ます。

葬儀で会った50代の男性の中には、平気で見た目について言い合っていた昭和の記憶の残滓があったのです。葬儀という非日常的な場で、思わぬ人がストッキングとパンプスを履いているのを見て、ついポロリと驚きを表明したのではないか。

言われるこちらも50代ですので、露骨に嫌な顔などはしません。
「私も一応、脚があるんですよー」
などとヘラヘラと受け流して去っていく、と。

我々世代のそうした受け身技は、日本にセクハラを蔓延させた原因の一つとされています。「性的いやがらせ」と訳されて「セクシャル・ハラスメント」という言葉がアメリカから日本に入ってきたのは、1980年代に入る直前のこと。それが次第に広まって「セクハラ」として流行語大賞に選ばれたのは、昭和が平成になった年、すなわち1989年です。

しかしセクハラという言葉が流行ったからといって、セクハラを真剣に撲滅しようという動きがすぐに盛んになった訳ではありません。せいぜい、
「○○ちゃん、最近ちょっと色っぽくなったんじゃないか? 彼氏でもできたの?」
といった発言に対して、
「課長、それセクハラですよーぉ」
などと冗談っぽい口調で言う程度のことしか、我々世代はできなかったのです。当時の課長やら部長は、「それ、セクハラですよ」を、ミニスカポリスが発する「逮捕しちゃうぞ!」程度の重みにしか感じていなかったものと思われる。

ポリティカル・コレクトネス的感覚がようやく浸透し、職場でその手の発言をするのはマジでいけないらしい、という感覚が強まってきたのは、2010年頃からか。「性的いやがらせ」という言葉が日本に伝播してから、その言葉が抑止力を持つようになるまで30年もかかったのは、「セクハラ」という言葉が存在していても、受ける側がセクハラに対してきちんと「NO」と言わなかったから、という部分も大きいのです。

若い世代が、セクハラに対して「NO」とはっきり言うようになってきた頃、とある大手企業に務める同世代の女性は、
「そんなのはいちいち騒ぎ立てなくても、軽く受け流せばいいだけじゃないねえ。それくらいできないと、まだ半人前ね」
と、誇らしげに言っていました。長年会社員をしている間に、どんなセクハラ発言を聞いても、その場の空気を重苦しくさせずに受け流せるようになった彼女は、自らの受け身技に自信を持っているのです。

しかしそれを聞いていた若い女性は、
「ああいうおばさんがいるから、セクハラがなくならないんだっつーの」
と、後から苦々しい顔で言っていましたっけ。女性側の受け身がいくら上手になったとて、セクハラ自体は無くならない。その発言はいけない、と相手に伝えないと世は変わらないという攻めの姿勢が、今の若者にはあります。

私としては、両者それぞれに「まあまあ」と言いたい気持ちになったことでした。50代が若い頃には、まだセクハラ男性を吊るし上げる体制は整っておらず、自分なりの方法で自衛するしかなかった。対して今は、企業でもセクハラ対策に取り組んでいますし、セクハラをそのままにしておく方がダサい、という空気も満ちた時代。それぞれの置かれた状況が異なるのです。

セクハラに対する受け身技術を誇りとする50代は、頑張ってハイヒールを履き続けてきた世代でもあるのでした。特に男女雇用機会均等法の施行直後に総合職として世に出た女性達は、「キャリアウーマンってこういうもの」と、頑張って職場でハイヒールを履き続けた。今、ジムなどで彼女達の素足を見れば、長年の纏足生活によって外反母趾が進行し、関節は黒々と色素沈着という痛々しい姿になっているのでした。

今でもハイヒールで働き続ける彼女達は、知らないうちに「働く女はハイヒール」というイメージを定着させていました。職場において、女性は「化粧していないと相手に失礼」とか「ストッキングとパンプスでないと相手に失礼」などと言われたものですが、均等法第一世代である我々が、
「そんなつらい靴で働きたくありません」
とか、
「なんで女は、化粧しないと失礼になるのですか?」
とどこかで発言していれば、世は変わったのかも。しかし我々はその手の発想を持たずに、つらい靴を履き続けてきたのです。
 

-------------------

後編は2月25日公開予定です。お笑い番組に見る女性出演者への揶揄芸やイジメ芸と受け取り手の変化について、酒井さんの考察は続きます。
 

前回記事「「全てに感謝!」世代と「有り難し」の境地【「エモい」と「無常」・後編】」はこちら>>