今月、国際女性デーや新型コロナウイルス関連などで、Twitter等を見ていて感じたことがあります。

 

私が大学時代に体得したことの1つに、「議論と人格否定は違う」というものがあります。大学1、2年生までの私は、ゼミや課外活動中の議論で、言い負かされてはぶすっとしていたり傷ついたりしていたのですが、そんな私に、繰り返し「別にあなたの人格を否定してるんじゃないんだからいちいち落ち込まなくていいんだよ」ということを示してくれたゼミの仲間がいました。

日本は議論の訓練がされていないとよく言われますが、私自身もそうで、ディスカッションというのはその主張に対して批判はしても別にその本人のこと好きとか嫌いとかいう話とかとは別なんだということを学ぶのに結構時間がかかりました。ですが、そのように激しく議論をしながらも、終わったら楽しく飲みに行ったり旅行したりしてくれた先輩友人後輩たちには本当に感謝しています。

しかし今のネット社会では、モノを言ったり主張したりしてその内容が気に食わないと、すぐに全人格的な否定につなげられてしまう。とりわけTwitterのような媒体だと、短文が拡散するうえに個人向けのレスがしやすいので、本質的ではないところで批判が膨れ上がったり、文脈を見ずに別のことを掘り返して攻撃されたりして炎上が起こります。

 

議論そのものをたたかわせて良い方向にアウフヘーベンさせていくことは良いことだと思うのですが、本来は同じ問題を根に持っていて、ゴールも同じ方向を目指していたはずの人たちが時に激しく対立していってしまうのを見ると、健全で建設的な議論空間というのをネット上で作る難しさを感じます。

一方で、私自身も、社会に出て、また組織から完全に独立して揉まれる中で、本質的な議論をしない人からの批判はスルーする鈍感力も身に付きました。中には所属組織や政治的思想などにおいて明確に拠って立つものがあって発言していて、状況が変化したときにもその場で思考してどちらが正しいかを判断しようとはなからしていない人もいることが分かったからです。

自分の中にも様々なバイアスがありそれに自覚的でなくてはいけないことも学んできたと思います。間違えたら取り下げる、別のことが見えてきたら言うことを変える、といったことも恐れずする必要があると思います。色々な意見があふれる中で、何を取り入れ、何を議論していくか。個人の否定をせずに、少しでも実のある議論をしていきたいものです。
 

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