酒井順子さんによる書き下ろしエッセイ。時代とともに変化する「若さ」と「老化」への意識。女性の加齢に伴う変化に対する呪縛からの解放は、また新たなプレッシャーを生むことも!? 「ガラスの50代」ついに最終回! 私たちの老いはどうなる……?

 

ストレートに表現しないという差別


日本のメディアでは今、「老人」「老いる」「老ける」「初老」といった「老」の字を使用した言葉の使用が忌避され、まるで差別用語のような扱いとなっています。「老人」は「高齢者」や「お年を召した方」に、「老いる」については、「年をとる」とすら言ってはいけなくなったようであり、「年を重ねる」に。「老ける」は「加齢による変化」となり、「初老」は「プレシニア世代」などと言われるようになりました。

「老」だけではありません。「更年期」は「ゆらぎ世代」とか「大人思春期」などと言われることもあって、聞いているだけでむず痒い気分に。昔から、日本人はややこしい問題については曖昧な言葉に言い換える習性を持っていますが、「年をとった人」の扱いについても同様なのでしょう。

この手の言い換えは、「年をとる」ことが望ましくないことだと認識されているからこそのもの、気遣いなのだと思います。年をとっている当事者は、さらなる老いが怖くいから、そのものズバリを表現するのも怖い。そして非当事者は、「ストレートに表現したら年をとっている人に悪いのではないか」という気持ちが募って、曖昧表現を多用。当事者・非当事者共に、心の中で老いを差別する気持ちがあるからこその表現です。

腫れ物に触るように「年をとった人」が扱われている今と比べますと、我々の祖父母世代の方が、年をとることに対しては楽に構えていたような気がしてなりません。今の中高年が、
「年齢にとらわれない!」
と合言葉のように言っているのに対して、昔の人は、心身ともに年齢コンシャスに生きていました。年をとったなら、引退して子供に家督や台所の権利を譲り、自身は隠居。還暦、古希、喜寿……などと、節目ごとに長寿が寿がれていたのであり、そこには「若くあらねばならない」というプレッシャーは、なかったのではないか。

我々もここにきてやっと、「いつまでも若い外見で」というプレッシャーから解放されました。しかしそれとバーターのように「でも、中身はずっと若いままでね」となったのは、そこに「『老』より『若』の方が価値がある」「老いたら負け」という思想が厳然とあるからでしょう。

しかし私は、ここであえて問いたい。老けること、そして老いることはそんなに悪いことなのか、と。人間の心身が自然のままに老いたり老けたりすることに無抵抗でいるのは、怠惰であり罪悪なのでしょうか。

 


若い部位と老化が早い部位


もちろん、「老いたくない、老けたくない」と考えるのは自由です。私も、筋トレをしたり白髪を染めたりと、局所的に老化への抵抗はしている。

しかし人には得手不得手、そして老化の早い部分とそうでない部分があるものです。「ここだけは、若返りは無理。好きなように老けさせて!」と思う部位が、人によってあるのではないでしょうか。

近藤サトさんの場合は、それが髪の毛だったのであり、いちいち染めることの不自然さに気づいて、グレイヘア宣言をされました。そんなサトさんも肌はと見れば若いのであり、いち早くグレイヘア宣言をしてブームを巻き起こすことができるということは、きっと心も若いのだと思う。

余談となりますが私の場合、割と自信があるのは、骨盤底筋です。今のところ尿もれ経験が無いのは密かな自慢ですが、しかしいかんせん、前述の通り、心は老けています。小学校3年生の頃から傾向はあったので、それを個性と言うのか老化と言うのかは定かではありませんが、とにかく若々しいキャッキャした性分が著しく薄いのです。

若い頃は、若っぽい心を持っているかのような偽装をしようと、頑張ってもみました。否、若い頃のみならず、その後も自分なりに、「心が若いフリ」を続けたつもりではあります(バレてはいたが)。

しかしウイルスによるステイホーム生活で思う存分に内向してからは、「自分の“地”は、これだった」と自覚。もうそろそろ無理をしなくてもいいのではないか、という気持ちになってきたのです。

それは私にとって、心のグレイヘア宣言と言っていいのでしょう。昔の日本人のように、恬淡の域に入って自然と枯れていくのも悪くないのではないか。……ということで、「これからは心の老化を隠さず、自然のままに老けていきます」という気分。

サトさんは、髪は白髪を隠さないけれど、心は若い。私は、白髪は隠すけれど、心は老けている。このように、人による老化の濃淡を認めつつ生きていけたなら、人はかなり楽になるのではないかと思う次第。


今いる場所を、下へ下へと掘っていく


世の中では、「年齢という呪縛」などと言われることもあります。年齢が、呪いのように行動を制限するのだ、と。

しかし、年齢を意識することによって行動が狭まる部分もあるかもしれませんが、反対に広がる場合もありましょう。たとえばあちこち動き回ることは難しくなってくるかもしれないけれど、今いる場所を、下へ下と掘っていくことは、可能なのではないか。

年をとっても、若者と同じようなことをし続ける人を見ると、私は「すごい」と思います。反対に、年をとったからこそできること、年をとらないとできないことをする人も、私は素敵だと思う。

そして今、50代の私がこれから目指すであろう道は、おそらく後者なのです。心身の老化をしげしげと見つめ、「こんなになるのね……」と思いつつ、その中で何ができるかをもがきながら探していく、という人生を、私は歩んでいくのではないか。

我々は先祖代々、葉が落ちたり花が散ったりといった自然現象に、うつろいゆく世の中や、老けゆく自分を観じてきました。自分もやがては落ちていく葉っぱの一枚であるならば、その前に水分や油分が抜け落ちてカサカサしたり、虫に食われたり、色が変わったりしていく様を体験しておかなくては勿体ない、と思うのは私が強欲だからなのか。年齢にとらわれ縛られ、それが自身に食い込む中で見えてくるものを、逃さず見つめていたいと私は思います。

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連載のご愛読、ありがとうございました。酒井順子さんのこちらのエッセイ連載は、書籍化を予定しております。刊行予定が決まり次第ご案内させていただきます。ご感想、メッセージなど、ぜひコメント欄へお寄せください!(書籍化の参考、コメントの一部掲載などを企画しております)。

酒井順子さん『ガラスの50代』連載書籍化記念アンケート

酒井順子さんの連載『ガラスの50代』が書籍になります! こちらに際しまして、ミモレ読者の皆さんにアンケートにご協力いただけますと幸いです。可能な範囲でご記入ください。いただいたご回答は、匿名で『ガラスの50代』単行本に収録させていただく場合があります。
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応募締め切り:7月7日(火)11:59
 
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