新聞社側が良い写真を撮りたいため、わざわざこうした行為を依頼したということになると、それはいわゆるヤラセということになりますから、まったく別の問題となります。しかしながら、そのような情報は今のところ出ていませんし、何よりサッカーチーム側が、服装や準備物などの指導が行き届いていなかったという趣旨の声明を出していますから、新聞社に要請されたものではないでしょう。

「被災地の中学生が撤去作業」の報道に批判。日本人は“配慮”を求め過ぎていないか_img0
復旧作業が続く被災地の様子。写真:ロイター/アフロ

気に入らないからといって、事実関係だけを報じる記事まで批判対象にしてしまうと、どのようなことが起こるでしょうか。

事実のみを報道しても批判されるということであれば、批判される可能性のあるニュースは一切報じないというメディアが増えてくる可能性があります。そうなると、危険な行為が行われているという事実そのものが、葬り去られてしまいます。

 

どうも日本人の中には、声高に意見を主張することが「報道」であると思い込んでいる人が一定数いるようで、今回のように事実を伝えただけの記事が批判されるケースをよく目にします。この記事を批判した人の多くは、新聞社が批判していないことについて怒っていたわけですが、一部の人は、美談だと怒っているわけですから、賛美していると勝手に解釈したのかもしれません。いずれにせよ、「自分が思っているように報道して欲しい」という欲求をメディアに対して持っているように見受けられます。

写真という分かりやすい形で、軽装で作業しているという事実が共有できたわけですから、あとは、各人が意見を出し合えばよいだけで、事実を報道したメディアを叩いたところで何も生まれません。

今回の件でメディア側に問題があるとすれば、それは批判の声に押されて安易に謝罪したことでしょう。

朝日新聞が記事について謝罪したということは、事実をそのまま伝える行為は不適切であったと自ら認めたことになります。しかしながら、メディアが事実を報じたことについて謝罪するというのは、実は極めて恐ろしいことです。それはメディアが意図的に情報を選別しても良いという話とイコールになってしまうからです。

メディアが情報を意図的に選別できるということは、何を国民に伝えて、何を伝えるべきではないのかという、重大な問題をメディアという特定企業に委ねることを意味しており、これはまさにメディアに権力を持たせることと同義です。これではメディアを通じて権力者が国民を統制する中国や北朝鮮のような国と何も変わりません(そうであるが故に毎日新聞は、事実を報じることの必要性から謝罪はしなかったものと思われます)

朝日新聞が謝罪した真意は不明ですが、とにかく批判が怖いので、何も考えずに謝罪してしまった可能性があることは否定できないでしょう。とにかく怖いので無条件に誤るという日本社会にありがちな「事なかれ主義」は、心情としては理解できますが、プロとしては完全に失格です。

こうした行為が常態化すると、声が大きく暴力的な人の意見だけが反映されるというアンフェアな社会を招きかねません。
 

前回記事「レジ袋有料化の効果に懐疑論が浮上。しかし日本はそれ以前の問題だった」はこちら>>

 
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