やっとランチタイムになった。クリニックのスタッフは三人。渋谷の高級住宅街と呼ばれるこの場所にクリニックを開いて三年近くになる。とはいえ、私は雇われ院長だ。この病院にはオーナーがいる。それが今夜会う佐藤直也だ。私は彼に雇われている。
「さあ、ランチに行っていらっしゃい」
 私はスタッフたちに声をかける。ランチタイムは一人で過ごしたいから、スタッフにはできるだけ外で食事をしてほしかった。朝、クリニックのそばにあるベーカリーで買って来たクロワッサンサンドをポットに入れてきたコーヒーと共に食べる。食べることだけに集中しない。ほかのクリニックのHPを(美容皮膚科は今や歯科とともに飽和状態だ)チェックし、医療雑誌の論文に目を通す。朝も、昼も、夜も、一人で食事をとることにもう寂しさなど感じない。誰かと食事をする、ということがとてつもなく面倒になる。今夜の佐藤直也との会食のことを考えると、胃のあたりがかすかに重くはなるが、指定された場所は和食の懐石の店なので、それほどのボリュームはないだろう。
 ふいに、クリニックのドアに取り付けたベルがチリン、と鳴る音がした。
 紙ナプキンで口を拭いながら出て行くと、額に汗を滲ませたスタッフの柳下さんが立っている。
「先生、今日、午後二時から取材」
「あ、忘れてた」
「やっぱり! もう口の端にパン屑つけてー。子どもですか!?」
 そう言いながら笑う。
「先生、その髪とメイクじゃダメだから」
「え、だめ? 髪もまとめてるからこれでよくない?」
「だめです、だめです。あの雑誌、出てくるドクターはヘアメイクつけている人もいるんですよ。先生、無頓着すぎ!」
 そう言って私を椅子に座らせる。ロッカールームから戻った柳下さんが黒い大きなポーチから銀色のコテを取り出した。
「髪は下ろして巻きましょう。あと、メイクも手直ししないと!」
 まるで口うるさい母のようだ。柳下さんは美容部員からエステティシャンを経て、うちのクリニックにやってきた三十八歳の女性で五歳になる息子を一人で育てている。施術者としてだけでなく、スケジュール管理やプレスとしての仕事も一任していた。気働きがきき、患者さんからの受けも抜群にいい。クリニックは午後七時までで、彼女は保育園の都合で午後五時には帰ってしまう時短勤務だが、それでも、スタッフのなかで私がいちばんに心を許している人間でもあった。彼女にはこのクリニックでずっと働いてほしかった。
 私が柳下さんに髪を巻かれ、メイク直しをされていると、次々にスタッフが帰ってきた。
「うわ! 先生綺麗!」
 お世辞だとわかっていても、うれしいものだ。いつのまにか、スタッフが私のまわりに集まりだした。
「もう、みんなに見られていたら恥ずかしいよ!」
 そう繰り返すのに、皆は柳下さんのメイクで変わっていく私を見てはやした。
 二十八歳の下田さん、三十三歳の成宮さんは、共に独身だ。このクリニックは女ばかりだが、スタッフ同士の仲は悪くはない、と思う。柳下さんにメイクを手直しされている私を見ながら、下田さんと成宮さんは婚活アプリの話を始めた。最近、彼女たちが婚活アプリで見知らぬ男性と会っていることは、小耳に挟んでいた。
「ところが、会う男、会う男、だめですよ……」
 肩を落として下田さんが口を尖らせながら言う。
「そうだ! 先生もやってみたらどうですか?」という下田さんの言葉に
「アラフィフ、女医、っていちばん引きが強そう」と成宮さんが続く。
「俺を喰わせてくれ、っていう男しか集まってこないよ!」
 と私が言うと、それもそうかもしれませんねぇ、とどこか納得したような声で下田さんが言い、その顔を私の化粧を直していた柳下さんが笑みをとどめながらかすかににらみ、下田さんが肩をすくめた。

「はい。今度はこちらから撮影しますね」
 パシャリ、パシャリ、と水風船が割れるようなシャッター音がする。私が出産したときの破水の音にも似ているな、と思いながら、私はカメラに向かってぎごちなく笑いかける。
 先に取材をすませた女性ライターが、パソコンのモニターを見ながら、
「先生、本当に綺麗。本当に本当に四十七なんですか?」とさっきの成宮さんのようなはしゃいだ声をあげる。
「正真正銘の四十七です」
 と言うと、カメラで顔を隠していたカメラマンが、
「僕と同い年なんて信じられないなあ」と半ば、あきれたような顔でつぶやいた。三十代のときの美容整形(これは柳下さんにしか話していない)、レーザー治療、ボトックス、ヒアルロン酸、半ば、自分の顔を実験台にして生きてきたのだから、若く見えないほうがおかしい。
 この女性誌の読者層はover40で、毎号、「人気美容皮膚科のおすすめ施術!」という見開きのページがある。四、五人の美容皮膚科医が月ごとに替わるが、私も二、三ヵ月に一度は登場していた。
「やっぱり、読者よりも年上の先生がこんな綺麗でいらっしゃる、ということが読者の方たちの興味をひくし、力にもなるんですよね」
 ライターというのはつくづく、筆とともに舌も滑らかな仕事だと思うが、そう言われて悪い気はしない。
「写真、チェックしますか?」
 カメラマンにノートパソコンのモニターを向けられる。
「いいえ、そちらで写真を選んでくだされば」
 私が口を開くと、
「写真のチェックは私がします!」と柳下さんが半ば叫ぶように口を開いた。
「え、ええ、じゃあ、彼女に写真を選んでもらって……」
 やれやれ、という言葉を飲み込みながら、モニターに顔をくっつけるようにして凝視している柳下さんを見、ライターの女性と軽く目配せをした。
 取材が終わっても、午後三時からの診察にはまだ少し間があった。デスクでカルテの整理をしていると、柳下さんがコーヒーを入れたマグカップを手にしながら診察室に入ってくる。
「先生、もう少し貪欲になってくださいよー」
「え?」
「先生の顔写真の善し悪しで患者さんの数も変わるんですよ。この前の取材のときだって、先生みたいになりたい、って患者さん、すごい増えたじゃないですかー」
 そうだった。ちょうど雑誌が発売されたのが、連休明けのことで、私と三人のスタッフではさばききれないほどの患者さんの予約が殺到したのだった。そうはいっても、私を含めて四人で受け入れることができる患者さんの数には限りがある。施術がおざなりになることも嫌だった。オーナーの佐藤直也から、患者の数を増やせ、と直接言葉で言われたことはないが、先月会ったときには、スタッフの数を減らすか、スタッフの給与をもう少し下げることはできないか、と言われたことがある。それだけは即座につっぱねた。それなら、自分の給与を下げてもらってもいい、とまで言った。
「経営はね、女の子の仲良しグループじゃできないんだよ」
 それだけ言って佐藤直也は黙ってしまった。今日もそのことについて何か言われるのではないか、それを考えるとこめかみのあたりに鈍痛が広がっていくような気がする。