結婚しても幸せになれなかった女
「ありがとう、早希。誘ってくれて」
そう言って静かに微笑む美穂は、以前よりさらに痩せ……いや、やつれて見えた。
この日、早希は前日の撮影で使用したリース小物を返却するため表参道にいた。
時間に余裕があって美穂に「お茶しない?」と声をかけたところ、年始ぶりに会えることになったのだが現れた美穂の様子がどうもおかしい。
淡い色のコートを羽織った彼女は相変わらず愛らしい。しかし透明感ある白肌が今日は少し荒れて見えた。
……実は、もともと何かあったのではないかと気になっていた。
というのも絵梨香の40歳を祝った夜、早希は帰宅するタクシーで美穂に写真を送った。しかしそのLINEが翌日昼まで既読にならず何の返信もないままだったのだ。
美穂は誰よりマメで丁寧な性格だ。早希のくだらないLINEにだっていつもならすぐ返信をよこすのに。
昼下がりのテラス席は冬の柔らかな日差しに包まれている。隣に座った美穂はマスカラなしに見える長い睫毛を伏せ、ピンクの薄い唇を固く結んでいた。
――何かあった……?
聞きたいが、きっかけが掴めない。そのせいで早希は言わなくてもいい話を一人でペラペラ喋る羽目になってしまった。
「自分でもびっくりしたわ。まさか10歳も下の男にときめくなんて」
するつもりのなかった隼人の話までして場をつなぐ。
「若い子に惹かれるのもおばさん現象の一つだからね。気をつけないと」
自虐的に笑ったら、美穂も「あはは」と声を出して笑ってくれた。それで少しばかり救われた気分になる。
「いいな、楽しそうで羨ましい。それに早希なら30歳とだって付き合えそう。若々しいし、とてもアラフォーには見えないもの」
優しい美穂はそんな風にフォローしてくれたが、もちろん真に受けてはならない。これは親友ゆえの過大評価だ。
「う……羨ましいことなんて何もないし!それに私の恋愛偏差値で年下男子と恋愛なんかしたら身の程知らずな痛いおばさんになるだけよ」
言いながら、まさにその通りだと自分で納得してしまった。
世の中には随分年下の男性と結婚するアラフォーもいる。しかしそういう女性はもともと素質があるのだ。恋愛に向く女で、だからこそ年齢をものともせずに恋ができる。
ぼんやりして恋人の浮気にも気づかず、挙げ句の果てには婚約破棄されてしまうような女とは根本的に違う。勘違いしたら痛い目に遭うだけだ。
「そんなことない、早希は綺麗よ。仕事もできるし魅力的だわ。それに比べて私は……」
そのとき、再び早希を持ち上げてくれた美穂が急に言葉を失い黙り込んだ。
「どうか……した?」
俯いてしまった華奢な肩が小さく震えている。早希は戸惑いつつも慌てて美穂を抱き寄せた。
「どうしたのよ……何かあった?」
ようやく口に出せた言葉が不穏に響く。そのまま数分の時が流れた。
「美穂……大丈夫?」
しばらくしてもう一度早希が尋ねた時、ついに美穂が顔を上げ低い声を出した。
「私ね、脱毛症になっちゃった。髪がごそっと抜けたの」
「私は幸せだ」と思い込もうとする専業主婦・美穂の日常が徐々に歪み始める……。
Comment