「もの忘れ」という言葉から始まる悲劇


アルツハイマー型のように、海馬ならびにその周辺がやせてくるようなタイプの認知症の場合、往々にして以前よりも記憶がしづらくなります。「記憶しづらい」ことと「忘れる」ことは全く違います。記憶の過程を経ていなければ、忘れるという体験も、しないのです。

 

でも世間では「もの忘れ」とよく言います。認知症の本人ですら「忘れっぽくて」と言ってしまいます。でも実際は忘れていないのです。「記憶しづらい」ことと忘れることをごっちゃにしてはいけません。

 

忘れた体験をしていない本人に「すぐ忘れるんだから」と指摘し続けることは危険です。言われた本人は、最初は愛想笑いをするかもしれません、でも四六時中指摘されたらとても嫌な気分になります。そのあとに何が起こるかは想像に難くありません。極端なことを言えば、その延長に殺人が起こるかもしれません。

忘れた体験をしていないにもかかわらず「忘れた」と言われ続け、そう決め付けられることは苦痛以外の何ものでもありません。しかも「もの忘れ」と指摘し続ける周囲の人は善意から言っています。医師、企業の宣伝、メディアでも「もの忘れ」と言っているくらいです。だから良かれと思って、そう指摘することが正しいと思っているでしょう。でもその先には悲劇しか待っていません。
 

認知症予防法は人の心を痛めつける


「頑張れば、もの忘れを克服できるのではないか」という誤った思い込みには二重の過ちがあります。すなわち「記憶のしづらさ」を「もの忘れ」と誤ってしまうこと。それと世間の歪んだ認知症予防法の取り上げ方のせいで、認知症の本人のみならず家族をも巻き込む悲劇を生んでしまうこと。

小さい頃から可愛がっていた娘から優しく「お父さん、なんだかすぐに忘れちゃうんだよね」と言われます。ある日脳トレのドリルが机にそっと置いてある。愛する娘は一生懸命認知症の父親のために本屋さんを歩きまわり、やっと手に入れた本でしょう。脳トレを娘から託された父親は精一杯娘のことを気遣い、すぐにでも脳トレを始めることでしょう。

でも日が経つにつれて脳トレがだんだんできなくなる。そうやってできなくなる自分に対して、娘の思いに応えられない自分に対して、二重に涙を流しながら脳トレをやり続ける。善意に囲まれ地獄に生きる、とはこのことです。