Clubhouseというアプリの利用が日本人の間で急拡大しています。私も波に乗って数日試してみたのですが、何が便利かというと家にいながら(さらに私の場合はシンガポールにいながら)、日本の友人たちが何に関心があるかに聞き耳を立てられ、場合によっては口を挟め、そしてさながら自分でラジオ番組みたいなものさえ立ち上げられてしまうこと。

 

リアルタイムでしか体験できない刹那的な場所で、だからこそ話せることもあります。その反面、アプリを閉じた後に急に訪れる静寂には、今まで友達が周りにいたのが急に一人の世界に投げ込まれたような感覚に陥る。だからこそついついアプリを開いてしまう中毒性もあるのかなと感じます。

Clubhouseは声しかないのですが、その声だけのやりとりをしてみて、対面やオンライン通話ではいかに視覚的なものに関心を奪われているかということにも気づかされました。文字とは異なり、その人の人となりのようなものも一気につかめた気になる一面も。

ヨシタケシンスケさんの『みえるとかみえないとか』という絵本(『目の見えない人は世界をどう見ているのか』の著者、伊藤亜紗さん監修)に出てくる、目が見えない人が世界をどう感じているか……という話を思い出しました。

 

一方で、基本的に記録に残らないメディアということで、目が見えない人との対比で言えば、耳が聞こえない人には体験できないメディアでもある。そもそも招待制である、現段階でiPhoneユーザーにしか対応していないなどの点も含め、書籍やテキストに音声読み上げ機能が増えているような、昨今のユニバーサルなサービスを作っていく流れとは逆行している。

スタートアップの動きとしては面白いものの、特に公的に発信するメディア等の立場で使う人達はこの点に意識的である必要があると思いました。

同じように、そのClubhouseで、女性起業家、女性経営者、ママの会……などの部屋が立ち上がるたびに、属性をつける必要性についても度々議論があがるところです。本来は女性と銘打つ必要性がない世界のほうが理想である、男性でも女性でもない人は排除されてしまうなどの意見があり、それはもっともだと思います。

一方で、最近私が読んだ『INVISIBLE WOMEN』(訳書は『存在しない女たち: 男性優位の世界にひそむ見せかけのファクトを暴く』)という本では、通常「人々の」と言って語られるもののイメージ、データ、デザイン等がいかに男性偏重であるか、それによって女性が被っている被害の大きさをデータで示していました。

 

現状では、残念ながら、たとえば女性起業家ならではの直面する壁がありそれを話す場が必要なシーンもあるでしょうし、あるいは意識的に名前をつけなくてはマイノリティが発言しにくい場になってしまうこともあるでしょう。

それでも、名前を付けることで排他的になってしまう可能性とともに、名前を付けないことでINVISIBLEになってしまうものへの想像力も持っていないといけない。Clubhouseの閉鎖性の心地よさに一気に関心と時間を奪われてしまうと、公共空間の緊張感を忘れかねないなと自戒を込めて思うのでした。
 

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