「自分は寮母」は身を守るための暗示

 

目を閉じて思い浮かべてみましょう。「推し」という言葉を「好き」と言い換えてみたときに湧き上がってくる気持ちを。胸が震えるとはまさにこのこと。身体中の血が顔面に集中したかのように顔が一気に真っ赤になって、手足は痺れ、喉はカラカラ。YOSHIKIさんのドラムぐらい激しく心臓がビートを刻んでいる。そして、そんな常軌を逸した僕を見て、島田紳助さんならこう言います、「それって恋やん?」と。

 

ええ、その通り。これは恋。ですが、それと同時に思うのです。え? 僕ごときが推しを「好き」とかどの口が言うてんの、と。言うて推しと僕なんて、主要成分は水とタンパク質っていうのが同じくらいで、それ以外共通項とか何もない。むしろ同じ人間と認識しているのもおこがましいくらいやからね? と、なぜか自分で自分を意味不明に罵倒してしまいたくなる。

それがガチ恋を名乗ろうとは、身の程知らずもいいところ。四谷学院なら「なんで、僕がガチ恋に!?」っつって、ひとりで勝手に交通広告を大量に打ってる。

そう、結局のところ、自分を寮母だと言い張りたいのは、自分を安全圏に置いておくための詭弁。一歩踏み込めば、ガチ恋にハマる可能性があることくらい自分がいちばんよくわかってる。でも、ガチ恋になっちゃったら本気でしんどいこともよくわかっているから、そうならないためにも自分は寮母と暗示をかけているのです。