五輪組織委員会の退任劇を巡り、様々な場所で、女性が置かれた立場についての議論が沸き起こっています。

 

私が見ていたところ、その議論の延長線上で、それなりの立場にいながら「私は女性で損をしたということがこれまで一切ない」とお話する人もいましたし、それに真っ向から反対する意見で「女性で損をしたということが一切ないという人がいるが、そんなわけない」という意見もありました。

「私は女性で損をしたということがこれまで一切ない」というケースについては、典型的日本企業ではない等、その人が身を置いていた環境にもよると思いますが、主観的にジェンダーギャップを感じずに生きてこれたのであれば、それは幸せなことであるでしょう。

一方で、「そんなわけない」という方の意見としては、この日本で生きていて、それなりの社会的地位に到達するには、自分も時に加害者側に同化しながら乗り越えてきてしまったと。そういったケースも含めて、誰しも女性であることによる不利益を構造的に受けているはず。それがなかったと言い切る女性は、単になかったことにしているだけなのではないか、というわけです。

自分にあったから、他の人にもあったに決まっていると言い切ってしまうことは少し暴論に思えますが、自分にあったから、他の人にもあったかもしれないと想像力を働かせることは大事だと思います。

さらに実際問題として、良いことであれ悪いことであれ、自分に降りかかってきた経験が属性によるものだと認めることは、時に痛みが伴います。だから「単になかったことにしている」としても、それを責められない。

ですが、「本当に自分にはなかった」という人には、1つだけお願いをしたい。自分になかったから、他の人にもなかったはず、とは思わないでほしい。自分にはなかったとしても、他の人にはあったかもしれないからです。

私自身も、これまで痴漢にあったことがない、と言って友人たちに驚かれたことがあります。学生時代も発言を躊躇おうと考えたこともなく、むしろどちらかというと結婚出産までは女であることを意識せずに生きてこれた(と思っていた)タイプです。

でも、それはたまたまそうだったのであり、痴漢は立派な性暴力であり犯罪であると声をあげることや、無意識の偏見や社会規範に押し込められてチャンスが減っていることについて指摘することを、自分には「(損をした経験が)なかった」からと、「不満ばかり」「権利を主張している」などとあたかも悪い事のように語ってしまえば、それは加害者に近づいてしまう。

自分に経験があってもなくても、他の人に、なかったかもしれないけど、あったかもしれない可能性の方を考え、想像力を働かせていたい。

そして、以前紹介した本『存在しない女たち』等でもわかるように、データを見たり、構造的に見たりすれば、相対的にどのような人たちが不利益を被ってきたかは明らかです。自分の経験談を話すことは構わないけれど、一般化をするときには気をつけないといけない。

このあたりの議論は、2015年前後にかなり活発に行われていた印象があるのですが、5年経ち、新たなプラットフォームが出てきたりする中で、何度でも繰り返し発信していかないといけないこともあるのかなと感じています。

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