問題は、二階氏がどういうつもりで「他山の石」という言葉を使ったのかということになりますが、作家の乙武洋匡氏は「「他山の石」の意味を知らないのか、それとも河井氏が昨年まで自民党に在籍していた記憶を失ってしまったのか……」と痛烈に皮肉を述べています。

二階氏はこの件について、これ以上のコメントはしていないので本当のところは分かりません。しかしながら二階氏は82歳という年齢ですから、戦後教育の世代とはいえ、当時はまだ戦前教育の雰囲気が色濃く残っていたはずであり、今よりもさらに古文・漢文が重視されていたと考えられます。

そうした環境で教育を受けた二階氏ですら、意味を勘違いしていたのだとすると、確かに古文や漢文を学んでもどれほどの効果があるのか? というひろゆき氏の指摘が、説得力を増してきます。

 

中国の古典は、最初はひたすら暗記しなければなりませんが、多くを暗記していくと、徐々に儒教的な価値観や教訓などが身に付いてくるという仕組みですから、意味をしっかり理解していないと、学ぶ意義が薄れてしまいます。「他山の石」については、目上の人や尊敬する人から学ぶという意味で誤用している人も多いそうですから、言葉というのはなかなか難しいものです。

 

結局のところ、こうした議論というのは、義務教育や高校教育の目的をどこに設定するのかで大きく変わってきます。日本の高校教育は、大学教育を受けるための予備段階という位置付けになっており、大学に進学しない人も基本的に同じカリキュラムで勉強することになります。
 
大学教育の前段階としてのカリキュラムということであれば、やはり三角関数や漢文はあった方がよいという結論にならざるを得ないと思います。以前のコラムにも書きましたが、三角関数が分からないと大学におけるいわゆる理工系分野の科目はほぼすべてが理解不能となってしまいますし、「四書五経って何?」といったレベルでは、中国という国を的確に理解することは不可能でしょう。

しかし、高校までの教育をアカデミックな教育の前段階とは考えず、社会に出るための実践的知識を身につける場と定義するなら、こうしたカリキュラムは不要かもしれません。結局のところ、どのようなカリキュラムが良いのかという議論は、学校教育の目的は何なのかという問いとイコールであることが分かります。この視点がないと、一連の議論も不毛なものとなってしまうでしょう。


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