2 子どものために身を呈する


2020年夏に公開された「MOTHER マザー」という映画は、埼玉で起きた孫による祖父母殺しという現実の犯罪が下敷きとなった作品である。シングルマザーでお金にルーズな母親は、子どもを置いてパチンコに行き散財するばかりでお金を稼ごうとはしない。高齢の親に借金をせびって拒絶される。あげくの果てに息子をそそのかして親を殺し、金をせしめた。

ⓒ2020「MOTHER」製作委員会

当時の担当刑事が女性週刊誌のウェブサイトのインタビューで、事件について詳しく語っている*10。彼は取り調べ中、「すべて息子がやった」と話す母親に対して、「俺が母親だったら噓でもかばうぞと怒ってしまいました」という。さらに母親のことを、「普通の人から見たら、保護責任者遺棄だと思われるようなことでも、彼女らにとってはまったく悪いこととは思っていない。むしろ自分はきちんと育児していると思い込んでいる人さえいる」と憤る。そして、この母親を〝育児リテラシー〟が低いと切り捨て、少年と同じ罪で起訴できなかったことを悔やむ。

 

女性週刊誌の読者に向けて語られている元刑事の言葉には、世間が母親にこうあるべきだと浴びせる厳しい眼差しが濃縮されている。雑誌記事を用いた言説を分析する研究では読者層に着目する。女性誌で語られている以上、この元刑事のインタビュー記事は女性たちに歓迎される範疇におさまっているはずだ。読者はルーズな母親に共感することはなく、息子に同情をしてすんなり受け止めているであろう。つまり女性たちは互いに守りあったり、かばいあったりはしない。そして評価は父の名のもとにくだされる。

しかし、この母親に子どもを宿した男性は去っていき、時折戻ってきて同居しても、暴力を振るうことがあった。つまり彼女はドメスティックバイオレンス(DV)被害者でもある。その状況下で長期間にわたり2人の子どもを生存させているのは、元刑事もインタビューで認めているように、捻じ曲がってはいても子に愛情があったからだろう。そんな彼女に十分な手は差し伸べられず、父親の責任が問われることはなかった。最終的には母親だから育てるだろう、と社会が期待し続けているうちに、事件は起きてしまった。

子どものために身を呈しているように見えない時、母親の人格は否定されがちだ。人は利己的でありつつ利他的にも振るまう両義的な存在だという人間観は忘れ去られる。