だがどうだろう。

こんな時に僕が妻に感じていた不満の底にはやはり、「妻というロール」を果たしていないように見える妻を、家族に堂々と見せられないというストレスがあったのではないか。僕は脳内で想起する「夫の実家に来たらお料理手伝って家事を率先する外っ面の良い=実家受けの良い妻像」とリアル妻を比較して、勝手に苛立ちをつのらせてきたのだと思うし、友人の妻がまさにそんなタイプだったりすると、無いものねだりの羨ましさを感じていた。

これが、わだかまりの正体。それは妻の障害特性ではなく、僕自身の問題。

昭和48年生まれ、日本の男である僕の中に、汚泥のようにこびりついていた「ロール=役割の呪い」。それこそが、妻に対する違和感や不公平感の底に沈んでいたわだかまりの本態であり、そこから脱却することが、僕自身を楽にする最後の特効薬だったのだ。

役割=生産性ではない


「ロールの呪い」は、発達障害特性云々は抜きにしても、現代の生きづらさの根幹であり、なかなか脱却し難い強烈な呪いだと思う。

僕にかかっていた呪いは、外で働くという役割を持たない妻は、家事労働をするか育児をするか、何らかの役割のもとに生きるべきというものだ。乱暴に言えば、働かざる者(生産性の無い者)食うべからず。けれど、突き詰めて考えると、これは極めて危険な思想だ。

なぜなら、役割の無い人間は存在するべきではない、社会に対して生産性が無い人間は生きている価値が無いという考えは、障害や不自由を持つ者と社会を分断する最悪の呪いであり、極論すれば「津久井やまゆり園」(相模原障害者施設殺傷事件)の植松聖の論の正当化にすら与するものとなるから。LGBTに「産み育てる」という生産性のロールが無いからとして大炎上したどこかの議員の大失言にも通じる。

けれど、人のロールとは、生産的な活動だけに紐づくものだろうか。

違う。

なぜなら、いまでは家庭運営の重要な担い手となってくれている妻だが、仕事も家事もしなかった時の妻に何のロールも無かっただろうかと思い返せば、絶対にそんなことはなかったからだ。

常に僕のそばにいてくれる妻は、第一に僕を独りぼっちにしないという役割を担ってくれていた。彼女がいるから僕は仕事が終わった後に独りで食事をしなくて済み、気持ちが削られたときにそれを共有してもらったり、答えの出ない悩みを抱えた時にも「今を楽しむ提案」をしてもらうことができた。

このロールは、どんな女性にもできることじゃなくて、妻にしかできないロールだ。

 

思えば僕もそれなりにだらしなくて、性格も細かくて面倒くさくて融通が利かなくて、僕と365日生活を共にして耐えてくれる女性も、僕の側が耐えられる女性も、そうそう存在しないと思う。

 

妻無くして、僕は今のパフォーマンスで仕事はできないだろうし、そもそも僕が高次脳機能障害となった後に自死の道を選ばなかったのも、妻がいてくれたからだ。

生産性を全く抜きにしても、「誰かのパートナーが務まる」ということだけで、それだけでも立派なロール! 僕のパートナーとして存在してくれているだけで、妻は街を歩くどんなに生産的ロールを担っていてどんなに優秀な女性よりも、得難い役割を果たしてくれている! 

そう思い至ることができて、僕の中に長年横たわっていたネガな感情は、やっと消え去ったのだった。

ニートな妻はどんな人にも自慢できる愛妻になり、家族にも堂々彼女の存在の重要性を主張できるようになった。

「お連れ合いは何をされていますか?」と聞かれていまの僕なら「妻は僕のパートナーをしています」と堂々答えることができる。

そう答えることに、何の痛痒も感じないとは、何と楽なのだろう!!
 

(明日配信の続編をお楽しみに!)
 


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構成/露木桃子
 
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