個人主義を取り入れた日本の家族の光と影

 

成人した子どもが事件を起こせば親も責任を取れと糾弾され、年老いた親が事故を起こせば子どもの管理能力が問われるのが日本の親子関係。一方、留学時にアメリカの家族像を目の当たりにした山口さんは、日本との違いをこのように捉えています。

 

「アメリカの『家族』は、成人した子どもを含まない。逆に、成人した子どもが家族を作った場合、年老いた親はそこに含まれない。それぞれが個人として生活を切り拓いていくしかないのだ。一方、日本の『家』は、世代を超えて私たちを緩やかに包含する。明治維新のなかで、当時のびっくりするほど賢い人々は、西洋的な個人主義の概念を急速に吸収して法を作り上げた。だが、彼らの頭の回転が速すぎて、社会の側が置いてきぼりをくらう。だから、法と世間が乖離したまま日本は今にいたっている。条文に定められた『個人』のロジックとは離れて、『家』というエモーションが私たちの心に温存されている。明治維新から150年を経て、私たちはいまだに『家』と『個人』の過渡期を生きている」

「家」というものに縛られた人々の集合体から、自由な生き方が約束された「個人」の集合体へ。この家族像の変化には代償がついて回ると山口さんは唱えます。

「子どもたちがなんとかしてくれるから─。それを当然の前提として人生を設計していける時代から、私たちは飛び出そうとしている。これから先、『個人』の時代を生きていくということは、『家』というぬくぬくしたこたつ布団をはねのけて、あえて冷たい外の世界に歩み出すことだ。『家』の時代がバラ色だったとはいわない。だが、『個人』の時代へと続く道にもいばらが茂る。それぞれのメリットとデメリットは表裏の関係にある。だが、私たちは、いい悪いにかかわらず、『家』という社会の慣習から、『個人』主義的な未来へと加速度をつけて進んでいかなければならない。もう、後戻りはできない」