40歳独身女性が、余命一年の宣告を受け、貯金をはたいて男をかうーー作家・吉川トリコさんの最新刊『余命一年、男をかう』が発売に! リレー連載・第3回は、カリスマ書店員でエッセイスト、そしてストリッパーでもある新井見枝香さんが「もし余命一年だったら……」を綴ります。

絶対にあり得ないはあり得ない

 

10代の頃から「明日、目が覚めませんように」と心で唱えて、眠りに就く習慣があった。当時、ビジュアル系のロックバンドが大流行しており、死神みたいなバンドマンによる、刹那的な生き方を良しとした厭世的な歌詞が、少女たちを洗脳したことは否めない。だがおそらく、私はそういう資質を生まれつき持っていた。そうでなければ、ある一定の年齢を超えた時点で、目が覚めたはずなのだ。「まだLIVE行ってるの?」と笑う、一緒に頭を振っていたはずの友人たちみたいに。

 

その頃からもう30年近く願い続けているが、まだ叶わない。積極的に死にたいほどではないが、もう今日で何もかも終わりだといいな……とぼんやり思ってしまうくらいには、面倒くさいことがある。そして何より、明日も明後日も自分は生きていて、世界は何も変わらずに続いていると、何の根拠もなしに思い込めることが、どうも気持ち悪い。シフト通り、スタッフ全員が元気に出勤することが普通だと、どうして思えるのだろうか。私にとっては、毎日がミラクルである。

 

もし余命1年と宣告されて、私が病院の丸いすで肩を落としていたら、「1年しかない」と嘆いているのではなく、「1年もあるのか」とうんざりしているだけなので、心配しないでほしい。そんな風だから、貯金という概念がないし、節約する必要もないし、やりたいことはすでにやっている。そしてやりたくないことは極力やらずに、できるだけ先延ばしにしている。もしかしたら、やらなくても済むかもしれないからだ。ちなみにこの原稿の提出が遅れたのは、決してやりたくないからではなく、完全に失念していただけである。……申し訳ございません。

とはいえ、人はその状況になってみないと、自分のことすらわからない。スリルを味わうつもりでバンジージャンプに申し込んだというのに、いざ崖っぷちに立ったら足が竦んで動けないかもしれない。自由奔放に不特定多数と交友関係を広げていたら、頭がどうかするほど愛しい人に出会って、「○○命」と刺青を入れることで、貞操を誓いたくなるかもしれない。

自分だけは絶対にありえないと、何の根拠もなしに言い切れる人も、気持ち悪かった。本当にありえないのなら、小説のほとんどは共感ができないし、フィクションすぎて感情移入ができないだろう。たとえば、いきなりピンク頭のホストに「お金持ってない?」と声を掛けられても、今の私なら絶対にクレジットカードを差し出さないが、確かにそういう状況ならなきにしもあらず、と絶妙なさじ加減で思わせるのが、小説の面白さなのだ。浮気をした主人公は、浮気をするつもりなんてなかったほうが面白いし、人を殺してしまった主人公は、虫も殺せないほうが面白い。そしてその面白さが通じるのは、読者が人間の分からなさを、本当はどこかで分かっているからに他ならない。

と、このように一般論にすり替えて、もっともらしいことを述べ始めた人間には、大抵隠しておきたいことがある。

実は私にも、余命1年と宣告されたら、やりたいことがあるのだ。だったら今すぐやればいいのだが、何かに臆して取りかかれない。

もう何年も、ビジュアル系バンドマンに本気で恋をしている。今すぐ好きだと伝えて、なけなしのお金を渡して、一夜を共に過ごして欲しい。ビジュアル系はもうだいぶ下火で、彼もお金に困っているはずだから、〈誰にも言いません〉〈寝顔をスマホで撮影しません〉〈ストーカーにはなりません〉と誓約書を書けば、応じてくれる可能性が0ではない。だが、そこまでして拒まれたら、さすがの私も立ち直れない。もうLIVEに行けなくなったら生きていけない。そして心のどこかで、そんな手を使わなくても、振り向いてくれる日がくるかもしれない、と思っている。だが1年しかないとなれば、これだけ待ってもダメだったのだから、何もできずに死んでしまう確率99パーセント以上。

死んだら二度とあの人に会えないのだ。歌声も聴けない。目が合うこともない。死後の世界なんて見たことがないもの、信じられるか。

私はこの人生で、やりたいこともやったし、食べたいものも食べた。たくさん働いた割に貯金が全くないが、借金せずにやれている。だけど人の心だけは、どうにもならない。好きになった人が、自分のことを好きになってくれることのミラクルは、お互いが同じ時代に生きているということのミラクルの上に起きるミラクルなのだ。つまり何が言いたいかというと、好きな人と一度でも相思相愛になった人は、そのミラクルにもっと感謝するがいい!ということだ。ええと、これ何の話だったっけ?


私は今夜も、いつもの願いを心に唱え、眠りに就く。目を開けた瞬間に、好きな人が私を見つめているなんてことがあれば、願いが変わることもあるかもしれないが、だいたいそういう時に限って、二度と目が覚めないような予感がする。

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新井見枝香(あらい・みえか)
東京都出身。三省堂有楽町店にて勤務後、2019年に退社。その後HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGEに入社。現在は踊り子と兼業している。2014年から始まった「新井賞」は、ジャンルにとらわれず、新井自身が選定し、毎度話題となる。著書に『探してるものはそう遠くはないのかもしれない』『本屋の新井』『この世界は思ってたほどうまくいかないみたいだ』がある。

 

『本屋の新井』
新井 見枝香 著 ¥1300(税別) 講談社

本は日用品。だから毎日売ってます――。
ときに芥川賞・直木賞よりも売れる「新井賞」の設立者。『探してるものはそう遠くはないのかもしれない』も大好評の型破り書店員・新井見枝香による”本屋にまつわる”エッセイ集!
「新文化」連載エッセイ「こじらせ系独身女子の新井ですが」に加え、noteの人気記事、さらには書き下ろしも。装幀、カバーイラスト、挿絵は寄藤文平!

 

『余命一年、男をかう』
吉川トリコ ¥1650(2021年7月16日発売) 講談社

幼いころからお金を貯めることが趣味だった片倉唯、40歳。ただで受けられるからと受けたがん検診で、かなり進行した子宮がんを宣告される。医師は早めに手術を勧めるも、唯はどこかほっとしていたーー「これでやっと死ねる」。
趣味とはいえ、節約に節約を重ねる生活をもうしなくてもいい。好きなことをやってやるんだ! と。病院の会計まちをしていた唯の目の前にピンク頭のどこからどうみてもホストである男が現れ、突然話しかけてきた。「あのさ、おねーさん、いきなりで悪いんだけど、お金持ってない?」。
この日から唯とこのピンク頭との奇妙な関係が始まるーー。


イラスト/shutterstock
構成/川端里恵(編集部)

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