近ごろは、自分の価値観や望みを過度に子どもへ託してしまう親を「毒親」と呼んで疎んじる傾向がありますが、親であれば子どもにこうなってほしいという願いの一つや二つは持っているでしょう。たとえ多くを望まないにしても、「親がいなくても一人で生きられるようになってほしい」くらいのことは多くの親が考えるのではないでしょうか。

しかし、世の中にはその最低限の希望でさえも持つことが困難な親も存在します。かつてその一人であった石村和徳さんは自著『自閉症の画家が世界に羽ばたくまで』において、自閉症を抱えながらも画家として成功した息子・嘉成さんと歩んできた道を、和徳さん自身の手記と亡き妻・有希子さんの遺した日誌で振り返っています。

お二人の子育ては苦悩と忍耐の連続ですが、その愛情の深さやあきらめずに人生を切り拓いていく姿勢には学ぶことが多く、親という立場でなくても共感できるでしょう。そして、障がいのある子を育てることが、思いのほか喜びに満ちたものであることも見えてくるはず。今回は心から温かい気持ちになれる本書の一部をご紹介します。

嘉成さんが版画として描いた母・有希子さんの肖像

石村嘉成さんプロフィール
1994年生まれ。生後2歳で自閉症による発達障害と確定診断が。両親の愛情と努力、療育センターでの指導などを受け成長し、高校は一般受験で入学。高3の授業で描いた版画が評価され、創作活動を始める。2013年に第2回新エコールドパリ浮世・絵展ドローイング部門にて優秀賞を受賞。以降、各地で個展を開くたびに入場者数記録を塗り替え、メディアでも多数取り上げられている。

 

自閉症児を育てるうえで大事なことは「不親切」になること


遊びに乗ってこなかったり視線が合わなかったり。1歳2ヵ月を迎えた息子の様子に不安を感じた和徳さんと妻の有希子さんは、小児科医で「トモニ療育センター」を主宰する河島淳子先生に診てもらったところ「自閉症」と診断されてしまいます。自身も自閉症のお子さんを育て上げた経験のある河島先生は、自閉症の子どもたちを甘やかさない方針のもとで療育していました。その光景を目にした和徳さんは、これまでの自分の態度を反省することとなります。

「『ちょろいもんやな。俺が泣きわめいたら、ママとパパは好きなもん出してくれるぞ』。つまり自閉症児の我が子は、私たち両親を奴隷にして、王様気分で振る舞っていたのです。こんな対応をしていたら、やがてモンスターになって手が付けられなくなるかもしれません。泣きわめいたり、大暴れしたところで、状況は良くならない。そのことを教えるには、冷たくしなければならない。最愛の息子を抱きしめたくなる気持ちを抑えて、突き放さなければいけない。そのことを痛感し、この日を境に“不親切な親”になる懸命の努力を始めたのです」

嘉成さんを厳しく育てることを決意した和徳さんと有希子さんは、好奇の目にさらされることを覚悟のうえで積極的に外へ連れ出すようになります。そこにはこんな親心が隠されていました。

「息子に社会性を身につけてほしかったからです。外に出れば、まわりに迷惑をかけるかもしれない。失敗も必ずする。でも、そうしたことが糧となって人と付き合うことをおぼえてくれたら、それに勝るものはありません。人に好かれるためには、社会性を身につけるには、傷つくことを恐れずに人前に出る、社会に出るしかないのです」

外出先での有希子さんと嘉成さん

とはいえ外出は苦難の連続。嘉成さんは思い通りにならないことがあると泣きわめいて和徳さんや有希子さんを困らせましたが、それでも二人は心を鬼にして彼を突き放すのでした。時には通りすがりのご婦人から「あんたも親だったらなんとかしなさいよ」といった厳しい言葉を投げかけられたこともありましたが、それでも和徳さんは信念を曲げることはありませんでした。

「私はこのとき、『すいません』と謝ったり、『これがウチの方針ですから』と弁解したりすることなく、黙って婦人をやり過ごしました。経験値を上げようと外に連れ出していれば、こういうこともある。成長してこんなことをしたら、まわりに白い目で見られ、迷惑をかけてしまいます。息子のペースにはめられて毎度手助けしていたら、大人になっても変われない。ですから、息子が小さいうちに『暴れてもムダ』ということを教えておきたかったのです。私はそう思って、泣き叫ぶ嘉成を見つめていました」

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嘉成さんの心を通して描かれた動物たち
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