失くした恋の、そのあとに


「蓮人さんの奥さんて、総務にいる戸山さんなんですか!? 僕、いつも備品もらいにいくと優しく対応してくれて、お世話になってるんですよ。言ってくださいよ~」

10月から異動してきた後輩の木下が、社員食堂で昼飯を食べながら尋ねてきた。

「ああ、そうだよ。絵里子は旧姓で働いてるから。うちの会社、社内結婚多いし、珍しくないじゃん、わざわざ言わないだろ」

僕が勤める商社は、20代での海外駐在もあるので、それをきっかけに比較的早めに結婚する社員も多い。

僕は34歳で結婚したので、かなり遅いほうだと思う。

「いいなあ、俺、最近結婚したいなーと思うようになったんですよ。合コンも一通り行って、なんか気がすんじゃいました。ゼミの同窓会で、元カノに再会して、なんかタイミングっていうか、こういうのもアリかなって」

「木下、いくつだっけ?」

僕が思わず尋ねると、彼はにこにこ笑いながら答えた。

「29です」

「若いのにしっかりしてるねえ。まだまだこれからだよ、ほんとに好きな子と結婚しろよ」

僕はA定食の豚汁をすすりながら目を細めた。

29歳と言えば、僕は結婚どころか、一番そこから遠くにいた。ちゃらちゃらしてるように見えて、木下のほうがずっと大人だ。

それは僕が結婚すると固く決めていた佐奈が、好きな人ができたと去っていった歳だった。

「蓮人と佐奈が付き合い始めたって、マジかよ!?」

学内でも憧れている男が多い佐奈に告白されて付き合い初めてから、とりたてて存在感のない僕がそんなふうに突っかかられるようになった。

大学4年生、念願の商社から内定を貰って、気楽な22歳の秋だった。

「うーん、それがほんとなんだよ」

僕がほんの少しの牽制を交えてへらりと笑うと、相手の男どもはみんな絶望と苦悶の表情を浮かべた。

清楚な佐奈の人気は、僕のような普通男子の間で圧倒的だったから、無理もない。

 

ナチュラルで、気さくで、よく見ると美人。僕らがいたゼミから唯一ミスコンに他薦で出場していた。終始恥ずかしそうにぎこちなくほほ笑む佐奈は、グランプリにはならなくとも間違いなく男たちの心を根こそぎ刈り取った。

 

そんな佐奈が、一体どういう風の吹き回しでとりたてて目立つとことのない平凡な僕を好いてくれたのか、実はいまだにわからない。

「蓮人くんて、彼女いるのかな?……もし良かったら、私と付き合ってください」

顔を赤くして告白された夕方の構内の銀杏並木を、今でも鮮明に思い出せる。

僕はもちろん、ファンとしてほのかに佐奈が好きだったけれど、本当に恋に落ちたのは付き合ってからだ。

それまでは、佐奈と自分がどうこうなるなんて考えるのもおこがましいと思っていたし、みんなで遊びに行くことはあってもふたりきりというのは1度もなかった。

大学生生活の最後の半年を、僕たちは1日も空かずに一緒に過ごした。

深夜の映画、試験前の図書館、コーヒーショップのアルバイト、夜明けのじゃれ合い。比喩でも誇張でもなく、すべてのシーンに佐奈がいた。

佐奈はIT企業の営業に就職が決まっていて、そこは忙しいことで有名だったから、「社会人になったらこんな風にずっと一緒にいることもできないかも」と時折不安をのぞかせた。

僕は当時としては精一杯背伸びした、シンプルなプラチナの指輪を贈った。

すぐに結婚するのは常識的に難しかったけれど、それは僕にとって婚約指輪にも匹敵するような思いだった。

……今思えば、この「常識的に考えて」というのが、いつだって僕の人生の失敗の原因だったのだ。