――本作は1999年にオフ・ブロードウェイで上演されました。日本での上演は、今回が初めてです。

 

「たぶん99年当時に日本で上演しても、『これはアメリカの話だから、よくわかんないね』となっていたと思うんです。それが、今の日本ならちゃんと自分たちと地続きの物語として捉えられる。それだけ、いいも悪いも含めて、日本もまた時代が変わって状況が変わった。

男女平等と言っても、女性にほぼすべての権利が与えられたのはつい最近のことで。しかも実態で言えば、まだまだ同権じゃないと思っている方もたくさんいらっしゃると思う。

 

日本でもジェンダーのことや女性差別のことが議論されるようになりましたが、それでも地位も力もある年配男性が女性蔑視的な発言を普通にしてしまい、しかも本人はウィットに富んだジョークのつもりだったりするわけです。

ある程度、年配の方々だと、そういう発言が普通だった時代を生きてきて、ある種、家父長制的な男性像に憧れさえ持ってきたわけですから。だから、発言自体を肯定することは絶対にできませんが、今さらそれを改めるのはかなり難しいと思うんですよね。

どの時代をどう生きたかで、その人の人格は変わる。だからもちろん今のお客さま自身の視点で、マーナとマイラの生き方を見て是か非かジャッジしていただいてもいいんですけど、きっと5年後10年後に見たら、またそのジャッジも変わっている気がするんですよ。

そういう意味では、自分の自身の価値観や生き方を問う指針となるような作品だと思います」

 


自分は世界の半分しか知らなかったんだと気づいて、考え方が変わった


――八嶋さんは性役割やジェンダー規範に以前から関心があったんですか。

「いえ。僕は若い頃は男性優位で年功序列的な、どちらかというと古いタイプの男性でした。特に20代前半はそんな感じだったと思います。劇団でも『先輩は後輩に偉そうにするもんでしょう? その代わり飯を食わしてやるぞ』みたいな(笑)」

――でも今のお話を聞いていると、すごくフラットに世の中を見ているなと思います。どう自分自身の考え方をアップデートしていったんでしょう。

「僕の場合は妻との結婚が大きかったと思います。表現が拙くて申し訳ないんですけど、もともとSだった男が、さらにドSな女性と結婚したことで、Mになった(笑)。仮にこの世界がSとMで構成されているとして、今までSとして生きてきた人間が、より強いSと結婚したことによって、Mの世界を知るわけです。

それまでこれがすべてだと思っていた世界が、実は世界の半分でしかなかったことを知る。そして、残り半分の世界に飛び込むことで、なるほど世界はこんなにも広いんだということがわかる。この気づきは大きかったですね。

自分の見えているものがすべてじゃないと知ることができたおかげで、あんまり自分の見方とか考え方に固執しなくなりました」

――年をとるほどに自分の価値観をアップデートさせていくのが難しくなるので、今のお話はめちゃくちゃ参考になります。

「あと、うちの家って、昔からすごくいろんな人が出入りしているんですよ。妻がバレエをやっていますので、海外のダンスカンパニーの方とかがよく泊まりに来ていていたんです。その中には、同性愛者のメンバーがいることもある。

あれはまだうちの息子が2歳くらいのことだったかなあ。朝起きたらいい香りがして。見たら、窓辺でうちの息子と家に泊まっていたゲイの男性が仲良く喋っているんです。どうやらコーヒーを淹れたくて、豆の置いてる場所だとか、キッチンの使い方だとかを、2人でああだこうだやって、なんとか無事にコーヒーにありつけたみたいなんですけど。

片や息子はまだ日本語すらままならない状態。片やダンサーは英語しか喋れない。でも立派にコミュニケーションをとって、窓辺で仲良くコーヒーを飲んでいる。ちょうど逆光だったからかもしれないですけど、その光景がなんだか神々しくて。そのとき思ったわけです、人と人とのコミュニケーションってこういうことだよなと。

当時から僕は、自分と性的指向が異なる人に対して特に偏見があったつもりはないですけど、無意識下で自分と彼らとの間に線を引いていたところがあったんだと思うんです。でも息子にはそれが一切ない。相手の年齢とか国籍とかセクシュアリティとか、まるで関係なく接している。もちろんそれは自我がまだ芽生えているかどうかの状態だったからというのもあるでしょうけどね。でも、あの朝見た光景は、多様性とかコミュニケーションを考えるときに、いつも思い出すものになりました」