時代の潮目を迎えた今、自分ごととして考えたい社会問題について小島慶子さんが取り上げます。

政府はウクライナから避難してきた人たちの受け入れ態勢を整えています。あなたが思い浮かべるのはどんなシーンでしょうか。青い目を見開いて不安げに歩く子供、金髪を束ねたやつれた女性たち……悲惨な映像をニュースで連日見ていると「助けてあげたい、是非受け入れてあげてほしい」という気持ちが募りますよね。人として当然の感情ですし、人道上も必要なことです。

 

では、思い浮かべたその場所は、あなたの近所でしょうか。我が子が学ぶ教室にウクライナ人の子供が座っているところを想像しましたか。避難してくる人たちはテレビの中ではなく、日本で暮らす人たちと地続きの場所で生活します。一緒に生きていくのです。

 

ウクライナの人ばかりではなく、アフガニスタンやシリア、あるいはミャンマーにも、迫害され命の危険を感じている人たちがいます。いま毎日テレビに映っている人々とはまた異なる風貌の、耳慣れない言葉を話す人たちがあなたの近所で暮らすようになったらどうでしょう。来たばかりで日本語がわからず、回覧板や掲示板が読めない人もいます。ゴミ出しの説明もなかなか通じません。それがいっときのことではなく日常になるとしたら、どうでしょうか。

「それは困るから、今のままがいいな」「もしそうなったら不安だな」と思う人もいるかもしれませんね。でも誰よりも不安なのは、帰る場所のない人たちです。国を追われ、身近な人を亡くしたり、武器で殺されそうになったりしながら逃げ延び、日本に助けを求める人たちです。言葉がわからない国で生きていく心細さはどれほどでしょうか。故郷には戻れません。母国へ追い返されたら殺されてしまうかもしれないのです。

私の家族が暮らしているオーストラリアには、難民として紛争地帯から逃れてきた人たちも暮らしています。ソマリアやコソボから逃れてきた人もいます。タクシーの運転手をしながら「子どもたちは全員、大学に進学したんだよ」と誇らしげに家族の写真を見せてくれる人も。オーストラリアに来た背景はそれぞれだけど、私たち一家もどこにも頼るところがないので、孤独を感じることがあります。そんな移民の苦労を語り合い、励まし合ったことは数え切れません。母語ではない言葉で働いて家族を養うのには大変な努力が必要です。それをサポートするさまざまな仕組みがなければ難しいでしょう。

オーストラリアには、非英語圏から引っ越してきた人たちのための公的な英語学習支援プログラムがあります。日本では、日本語を母語としない子どもたちのうち1万人が必要な日本語学習支援を受けられずにいるそうです。言葉はただおしゃべりできればいいのではなく、その言葉で学校の授業の内容を理解できるようになることが不可欠です。そうでないと進学・就職につながらず、社会で行き場をなくしてしまいます。

ウクライナから避難してきた人々の受け入れをきっかけに、外国からやってきた人たちが日本の人々に歓迎されていると感じ、この社会で頑張ろうと思える環境を整えることが必要です。

 
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