友人たちはプレゼントに値が張るブランド物をサラッと渡しますし、外食のお店選びもとてもスマート。一方筆者はというと、外食の経験はほとんどなく、プレゼントを交換するという文化もほとんど経験したことがありませんでした。

加えて、筆者の家庭は親戚づきあいがなかったため、結婚式やお葬式など冠婚葬祭のマナーが全くわかりません。お菓子屋さんで働いたときには、のしの種類をはじめ「半返し」などの文化も知り、世間にはこんな常識があるのかと驚いたものです。
※「半返し」とはご祝儀や不祝儀をいただいたときに、半額〜1/3程度の金品をお礼としてお返しすること。


他者との「違い」がコンプレックスに

 

そんな筆者のことを、大学の友人たちはよく注意してくれました。一緒に外食に行くと、箸やフォーク・ナイフの使い方が間違っていると指摘してくれることも。「結婚するとき困るよ」という言葉にはやや引っかかりはしましたが、将来困らないようにという思いで言ってくれているのが伝わってきたので、感謝していました。

 

ただ、自分が周囲と違うことを自覚するにつれ、自分のバックラウンド(「育ち」と言えるかもしれません)にコンプレックスを持つようにもなっていきました。それもあって、本のタイトルで「育ち」というワードを見たとき、少しぎょっとしたのです。

こうした反応をしたのは筆者だけでなかったようで、ネット上でも、バックグラウンドにかかわらず、このワードに違和感を抱いた人は少なくないようです。主に目立っていたのが、「育ち」とは選択不可能なものであり、本人の努力の範疇ではない。それで人を判断するのはどうなのか、という視点です。