美しさはいつも、後になってからしかわからない。


それでふと、30代の頃を思い出しました。当時私は自分を、衰えゆく哀愁を帯びた存在だと思っていました。もう20代ではない女性、という世間の眼差しから完全に自由になることはできなかったのです。だけどああ、今見れば30代の女性たちのなんと瑞々しく美しいことか! 20代よりも人間的な魅力が増していて、まさに女盛りという感じがします。当時はそれに気がついていませんでした。

あのシェール様が何かのインタビューで「私が一番美しかったのは40歳の頃」と語っているのを読んで、えええ40歳?! すごいおばさんじゃない?! と若い頃は思ったのですが、これもそうではないことが今はよくわかります。40代を迎えた女性は、どんなに笑っても笑顔に淡い憂いが宿るようになります。何度も泣き、怒りに灼かれて、瞳の底に刻まれた深い悲しみが透けて光るのです。それはとても、美しい。経験を積んで自信をつけ、威厳や気品が備わります。高価な宝飾品やバッグを身につけても衣裳負けしないようになるのです。

 

これは自分の過去の写真を見ても感じることです。いつも、後になってからしかわからない。30代、40代を生きていた当時の私は、画像の中に自分が失ってしまったものを見ていました。けれど時が経つといつしかその写真は、当時の私が確かに放っていた生の輝きを映すようになります。ああこんなにも命は美しいのに、どうしてあの頃は気づかなかったのだろうと、いつも不思議に思います。

と、いうことは。
今、もう50歳だなあ、と失ったものに目が行っている自分もきっと、後から見たら「50代にはその年齢にしかない魅力がある」と思えるような何かを宿しているはずなのです。目尻に深く刻まれた皺は、半世紀もの間たくさん笑い、誰かを見つめ、日差しを受け、ものを考え、時には慟哭し、涙を流した証。それでもなお生きることに期待しないではいられない瞬間が人生に残されている限り、私は新たな皺を刻むでしょう。

もともとささやかな膨らみでしかなかった胸は、もはや風に吹き散らされる砂丘のように消えかかっています。誰かの手のひらに包まれたことも、子どもたちの命を繋いだことも、体は覚えているけれど、形は失われてしまう。こうして時だけが私に降り積もり、少しずつ少しずつ、体は機能を失っていきます。

もしもまだ生きていたら、60歳の私には今の私はどんなふうに見えているのだろう。更年期に突入したばかりの日々を微笑ましく思い出すのかな。その後の50代に起きる色々を、49歳11ヵ月の自分に教えてやりたいわと笑っているのかな。未来の自分は見えないけれど、過去の自分には何度でも会いに行ける。きっと、その度に発見があるのでしょう。「いつも今が一番若い」と思うのか、「いつも今が最晩年」と思うのか、命との付き合いはこれからますます味わい深くなりそうです。

 


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