女性が悲しい体を生きずにすむ世界の実現を待ちわびて。


「子供を産む体を持つ」ということは、公共物として生きることなんでしょうか。どなた様もご自由に使える子宮という畑を世間様に提供して、どんなに理不尽でも黙って育て、困っても誰にも助けてもらえず「妊娠したのは自己責任」「甘えるな、母親なんだから」と言われて泣き寝入りしろと。

 


妊娠には、必ずその原因となる“射精した人物”が関わっています。なぜ妊娠も中絶も出産も育児も、射精した人は当事者として語られないのでしょうか。快楽のために女性の体は身近な娯楽として消費され、子どもや貧困女性の性搾取と人身売買で注目されるのはいつも買われる女性の側で、買う側についてはスルー。中絶でも、責められるのは女性ばかりです。性交と射精が相手の女性の心身の健康と人生に深く関わるものだということは一切語られず、その責任の重大さは問われぬまま、国をあげて全てを女性に負わせるようなことが、どうして21世紀になった今でも行われているんでしょうか。

私は女であることが悲しい。もうすぐ機能を終える子宮を持つ身として、二人の素晴らしい息子たちに出会えたことには心から感謝しています。でも一方で、こんなに悲しい体を生きねばならなかったことを改めて辛く、悔しく思う。なぜまだ私たちは怒り、抗議し、行動しなければならないのか。ひどい判決を受けてすぐに立ち上がる人々が世界中にいるのはとても心強いし自分もやれることをしようと思うけれど、だけど、でも本当に悲しい。悲しみと怒りを抱いて、私はいつか黄泉の国のイザナミに会いに行くでしょう。子供を産んで死に、夫に冥界に閉じ込められた女神に。

写真:shutterstock


閉経して子宮が機能を終えたら、ようやく体はオオヤケのものではなく、女性自身のものになるのでしょうか。その時こそ、解放を祝いたいものです。あと少しでその日を迎える私だけど、その祝杯は、世界中の女性たちと分かち合える時までとっておきたい。どこに生まれた人でも、生まれた時から最後まで、自分の体を自分のものとして生きられるようになる時まで。その人の命に誰も勝手に触れることなく、大切にされ、尊重される世界が実現するまで、とっておきます。
 

 


前回記事「50歳は“まだ”若いのか”もう”若くないのか。「今の自分」はいつも見えないという不思議」はこちら>>