生きることを求められている、という体験

 
 

二つ目の記憶は家族です。わたしは小児科病棟に入院していました。ベッドの下の狭い場所に母親が寝ています。いつ容体が急変するか分かりませんし、重症の小児科病棟は母親がずっと付き添います。部屋も狭くて待合場所がないので、母はベッドの真下にある狭い空間に布団を敷いて寝ていました。当時のわたしはガリガリに痩せていたらしく、両手でお腹が掴めるほどお腹回りが小さかったと聞いた覚えもあります。

父や姉が何度もお見舞いに来ている光景も浮かんできました。そうした風景を思い返していたとき、頭の先から足の先までビリビリビリと電撃のようなものが全身を貫きました。そのとき、わたしは「愛」と呼ばれる何かを知りました。つまり「自分は愛されている、生きることを求められている」。そうしたことを突然に体験し体感したのです。

それまでのわたしにとっては、この世もあの世も等価なもので、どちらも同じような意味合いの世界だったようなのです。どちらにも重みづけがされず、子どもなりにすべて運命に委ねていたような所がありました。

 

誰かに愛された体験が、人を生かす


その体験の後、「生きることを求められている」という強い自覚があり、はじめて「生きなければいけない」と強く決意しました。すると少しずつ元気を取り戻して、病状も回復に向かいました。そうしたおぼろげな記憶があります。

その記憶や体験は、わたしが医療者として生きていくこととつながっているようなのです。医療哲学の核に埋め込まれているのでしょう。いのちのフィロソフィーとして。つまり、「かわいそうな人間なんて誰もいない、周りが勝手に決めることはできない」「人生を相対化して比べることはできない」。そして「人間はどんな人でも、必ず愛の力によって生まれ、生存している」ということです。

人間は誰もが弱い存在です。特に赤ちゃんのときや子どものときは、とにかく弱く、圧倒的な弱者です。だからこそどんな人でも、必ず誰かから愛された体験がない限りは生き残っていけません。