塾に家庭教師、受験も「課金」するほど有利に


そもそも学力の形成の段階で、育った家庭の影響を受けるのはもちろん、周囲にロールモデルがいるか、進学が選択肢として見えるか、といった違いもあります。お金があれば空調が効き、勉強机のある環境で勉強ができ、早い段階から塾や家庭教師を利用することもできる。中高一貫校に入学し、私立大学を併願したり、浪人したりという選択肢もある。当然そうした環境のほうが、学力の形成や進学において有利なのは言うまでもありません。

世の中は、お金を払うことで権利を得られる仕組みになっています。課金制の例を挙げれば、アーティストのファンクラブがあります。会費を払うことでライブの当選率が上がる、会員限定のサービスが受けられるなどです。お金が払えない人はサービスを受けられず、お金を払う人は支払い金額に応じて様々な特典を受けられます。

ビジネスはある意味「排除すること」で成り立っていると言えます。これが嗜好品という部類に対してであれば、問題ないと思います。何でも無料に、というのは現実的ではありません。低価格と搾取は時に表裏一体です。従業員にちゃんと対価を払い、健全な経営をしていくためには、ある程度高い価格設定も必然的なものだと思うのです。

しかし、教育や医療といった分野において「課金制」が適応されるとどうなるでしょうか。お金がない人は教育を受けられない、医療を受けられない。お金を払った人が優遇され、お金のない人は排除される。こうなってしまうと、最低限の人権が守られなくなってしまいます。

 

お金がない人は「選択の余地」すらない

ドラマ『ユニコーンに乗って』より/撮影:加藤春日 
©TBS スパークル/TBS

「課金制」に対する考え方がなぜ生まれるのか、さらに考えてみます。おそらく、お金に困ったことがない人は、持っているお金をどこに使うか? どう配分するか? という選択肢があるからこそ、教育に力を入れたければ教育に多く課金するし、それ以外のことに力を入れたければそこに多く課金する。だから、課金とは「選択」なのだと思います。ある程度なら課金制でもいいし、そうなるのは仕方がない、と思うのが自然なのかもしれません。

一方、そもそも全くお金がない人はどうでしょう。教育が課金制になれば、選択する余地もなく排除されてしまいます。塾に行けない、教材が買えない、進学できないといったように。そして、学歴によって就ける仕事も賃金も変わってきます。たとえ進学できたとしても、教材を買うのが難しかったり、バイト漬けで勉強時間が作れなかったり、多額の奨学金の返済に苦しむかもしれません。